佐賀は城跡の宝庫、佐賀の英雄「龍造寺隆信」の歩みと重ねてみると100倍楽しめます。
その数、4万とも5万ともいわれる日本に存在した中世の城。私がいつも参考にしている「城郭放浪記」というサイトには、佐賀だけでも実に230もの城が紹介されています。そして、これらの城のほとんどが南北朝から戦国時代に築かれたもの。そんな兵どもの夢の跡が、ひっそりと山の中などに遺構として残っています。
日本の城と言われて多くの人が思い浮かべるのは、立派な石垣と巨大な天守閣などを備えた熊本城や佐賀城のようなお城ですよね。しかし、そんなお城が作られたのは天下の趨勢が定まりつつあった織田信長の晩年から豊臣秀吉の時代。本格的に普及していったのは、豊臣政権による天下統一が成った桃山時代のこと。それまでの城というのは、地形を利用して穴を掘ったり土を盛ったりして作られた土の城。佐賀には水路を利用した環濠集落のような平城も築かれていました。
これら中世の城は、地方の有力者の館としての機能を持っているものや、館を守るために敵の侵攻ルートや重要拠点に築かれたもの。あるいは、敵の領地へ侵攻するための拠点として築かれたり、領主一族を守るために緊急時の避難場所として館の近くに築かれたものなどなど、目的に応じて大小様々な城が築かれ、必要がなくなれば破棄されました。
特に戦国時代は日本中が戦乱の只中にあり、この佐賀の地も多くの勢力が生き残りをかけて激しく争いました。そのため、戦国時代に存在した城は自らの命を預けるものであり、戦うための城として当時の人々が必死になって考え出した知恵の結晶。いろんな工夫が施され、それらを遺構から読み取るツールが「縄張図」。これを読めるようになれば、城跡めぐりがとっても楽しくなります。
そして、城跡めぐりが楽しくなれば、佐賀各地に残された城跡を巡りたくなる。そう、ここまでで50倍くらい佐賀が楽しくなります。てか、私はなりました。
ということで、今回は佐賀の各所に残された城跡を楽しむために、縄張図の読み方を紹介したいと思います。
と言っても、私もプロじゃないので完璧じゃありませんが、それでも最低限の事を知るだけで十分楽しめます。縄張図を読めるようになれば、現地に行かなくても城の「凡その様子」が分かるようになります。縄張図を見ながらおもわずニヤニヤするような、気持ち悪い人になれるんですよ!
どうですか、興味深いでしょ?
では早速始めていきましょう。
縄張図を読む上でまず最初に知っておかなければならないのは、図に書かれた線の意味。グニャグニャ書かれている等高線は地図の授業で習ったはずなので分かるとしても、城跡が書かれている線は初めてですよね。何気なく書かれているように見えて、ちゃんと意味があるんです。
下に図を示しますが、縄張図は実線と破線(点線)で書かれた線があります。さらに、斜面に書かれたケバと言われる細かい線。ほとんどこの三つで描かれています。
縄張図は、平地から斜面への高所の境目「上辺」を実線で書き、斜面の終わり底との境目「下辺」を破線で書きます。太くシッカリ書かれているほど、その境界が明確という事。境界が曖昧な場合は、薄く細く書かれます。
その途中にある斜面を表すのが細かく書かれた線「ケバ」と呼ばれるもので、密度が濃いほど急斜面を表し、長さで「斜面の長さ」を表します。密度が濃くて長いケバは、急斜面が長く続く、つまり、高い急斜面という事です。
勢福寺城の縄張図の一部をズームしてみると、ちゃんと実践、破線、ケバが書かれていますね。竪堀と書かれた箇所を見てみると、急斜面に挟まれた堀になっている様子がよく分かります。更に、左と右でケバの密度と長さが違う事に注目。左が守備側、右が侵攻側です。落ちる側は若干緩やかで長い斜面、出るほうは急斜面で切り立つような斜面。よく見ると立体的に見えてきます。ここへ軍勢で攻め寄せたら、後続の兵士に押されて先頭から次々落下。先の急斜面を登れずもたついていたら、AB両方の郭から石や矢で攻撃されます。酷い・・・
さらに曲輪Bの所に文字を入れていますが、曲輪内から急斜面だが短く高低差の少ない斜面。実線と実線挟まれた場所は同じ高さの平地、そして長い連続した急斜面ケバで下辺がハッキリしないほど落ち込んだ斜面。これは土塁を表しています。
図で書くとこんな感じ。
基本的にこれだけで縄張図は出来ています、意外と簡単ですよね。ここに無い物が書かれていた場合は、城の遺構かどうかハッキリしない部分や破壊されている部分。又は、自然の段差などです。
それでは、実線、破線、ケバが理解できたところで、勢福寺城の縄張図から数か所ピックアップし、実際に妄想を膨らませてニヤニヤしながら楽しんでみましょう。
縄張図から城を楽しむ
侵攻してくる敵は武器を持ち、鎧を着こみ、装備品を携行しているため斜面を歩くのは大変な重労働。さらに、曲輪を放置しては敵の攻撃にさらされ続けます。そのため郭を順次攻略しながら、平地になっている場所を尾根伝いに進んできます。
そこで侵攻を喰いとめる役割を果たすのが堀切、通路となる尾根を断ち切って侵攻ルートを遮断します。
勢福寺城の大堀切の写真。下の写真は竪堀跡に立って、横から撮影しています。敵の侵攻方向は写真の右から左、右の郭の端から断崖絶壁になっています。
さらに、私が立っている場所には侵攻方向に直角に交わるように竪堀があり、迂回して回り込むことができなくなっています。ここで立ち止まると、一方的に左側の高所からの攻撃を受けます。
縄張図に書き込むとこうなります。堀切の堀を超えても、その先にまた堀が。そして、奥の郭からの攻撃にさらされます。
堀を迂回するにしても、ここは急斜面で高低差があります。武器を持ち、鎧を着こみ、さらに装備品を担いで山を上り下りするだけで体力を消耗し戦闘力が低下。本当にいやらしい構造です。
大堀切から伸びる竪堀跡。幅は5,6メートルどころじゃないかも、さらに急斜面です。迂回するにも、これを下って上がるのは大変。
自然の地形に手を加えてこのような防御設備を作ってしまう、どこに何を配置するかで大きく結果が異なります。凄いですねぇ。
そして、戦国時代の城にある防御設備のなかで、一番強力なのが堀。堀には大きく分けて二つの堀があり、薬研堀と平堀と呼ばれます。平堀は文字通り底が平らな平地になった堀で、佐賀城にあるような水堀に使われます。
戦国時代の山城で使われた堀は水のない空堀がほとんどで、落ちたら出られない薬研堀という堀。底がが狭く、両側が急斜面。落ちた敵は挟まって動きにくくなる構造。こんな堀に落ちて、もたもたしている間に石でも投げ込まれたら討ち死に間違いなし。兵士が次々落ちれば、狭い中でもつれ合ってさらに大混乱。踏まれてケガとか、最悪圧死とか・・・やだなぁ。
さらに、この堀を絶妙な位置に配置することで、敵が攻めてくる場所を限定させることが出来ます。守備側が攻撃しやすい場所へ敵を誘導することで、効果的な迎撃が出来るんですね。
敵を効果的に減らすには、包囲攻撃が有効。堀を使って、敵を狙った場所に集めます。
紹介するのは勢福寺城跡の縄張図から、この場所。
郭が連なり堀切などもある正面だけでなく、山すそを迂回して城の背後から攻めたとしてもバッチリ防御されています。守備側は竪堀を絶妙な位置に配置し、扇形に配置された陣地から包囲攻撃が出来ます。堀を迂回して守備陣地の右翼や左翼を攻撃しようにも、攻撃点は堀によって限定され多くの兵を展開出来ないどころか、狭い所に密集する事になるため的になりに行くような物。大きな犠牲を払わなければならないでしょう。
上の写真にある扇状に広がる「曲輪(I)」の真ん中、一段下にある小さな曲輪からの写真。ちょうど、曲輪(I)を見上げてみました。
どうです、この急斜面。なんとか敵の攻撃をかいくぐって斜面を登り、ここまでたどり着いて平地を確保しても、一息つくどころか上から矢や石が降ってくるんですよ。討ち死に確実です。
敵の左翼、自軍から見て右翼の端っこを黙らせて敵の包囲を崩そうにも、竪堀に行く手を阻まれます。
この城が廃城になったのが1589年ですから、今から400年以上も前。竪堀は殆ど埋まっていますが、横幅は3m以上ありそうです。急斜面で助走距離も取れないし、鎧と武器がありますからね。とても飛び越えられる幅じゃありません。
堀切と堀、自然の地形に少し手を加えただけですが、実際に現地に行ってみると恐ろしいキルゾーンに敵を誘導する構造になっています。堀切と堀、これは山城を鉄壁の城にする重要な防御設備ですね。
そして、山城の防御設備で忘れてはならないものがあと二つ。切岸という人工的に削られた急斜面と、平城にも使われる土塁が加わることで、山城は凶悪度を増していきます。
ほぼ直角に見える切岸の急斜面と、下に見える郭。今は木々が足場や取っ手になるので登れるかもしれません。しかし、城が健在だった頃は、木などなく固められてツルツル。武器を持って登るなんて不可能でした。郭を確保しても、一方的に上から攻撃されます。
続いて土塁。下からの攻撃を土塁に隠れてやり過ごしつつ、上からの視界は抜群。まさに狙い撃ち。
石垣や城壁を作らなくても、山の斜面を利用しつつ切岸と土塁を使えば堅固な城壁と同じ効果を持たせることが出来るんです。敵の攻撃は下から上、土塁で守られた内部を攻撃することは出来ません。守備側は、土塁からわずかに身を乗り出すだけで下にいる敵全てを射程に収めます。
どうですか、戦国の城。こうやって見ると、結構面白いでしょう。数十万石の大大名が莫大な予算と資材、人を動員して作られた総石垣づくりの巨城が凄いのは当たり前。しかし、戦国の城は純粋に戦う事だけを目的にした城であったり、地方領主がなけなしの財産を総動員して作られた城。さらに、そこら中で戦いが起こっていて、生きるか死ぬかの瀬戸際にあった人たちが、必至に自然地形を利用しながら工夫を凝らして作られました。
だからこそ、人を効率よく死傷させるための施設という生々しさが剥きだしになっている。そこを図面から読み解き、実際に見に行って「へ~っ、こりゃ討ち死にだな」なんて戦いを想像しながら歩くとマジで面白いんですよ。
城のエピソードを知れば楽しさ倍増
ただね、城があるだけじゃ楽しさは半分。まあ、半分だけでも十分楽しいんだけど、もっともっと楽しみたい。そのために大切なのが「城にまつわるエピソード」なんです。ちょうど素晴らしい事に、佐賀には龍造寺隆信という英雄が存在しますよね。この隆信さんの存在が、佐賀を楽しくする重要なファクターなのです。
龍造寺隆信は現在の佐賀市の一部を治める地方領主から、佐賀県全域、福岡県のほぼ全域、更に熊本の一部まで支配する一大勢力を築いた戦国の巨人。しかし、本来なら武将として世に出る事が無かったはずの人物なんです。
詳しく知らない人なら「えっ!」ってなりますよね。
龍造寺隆信は、僧として平和な毎日を送っていたんです。そう、武将ではなくお坊さんでした。
そんな平和なお坊さんを、戦国屈指の武将、そして大大名へと向かわせたきっかけは一つの事件。主家である少弐氏によって、父や兄弟など一族の多くをだまし討ちで殺されたのです。難を逃れた曾おじいさんと一緒に隆信は国外逃亡。そこで僧をやめ還俗。武将としての人生が始まります。
龍造寺のスーパー爺さんの活躍で領地の回復と復讐に成功、隆信は龍造寺の分家当主となり後に本家も相続します。やっと落ち着いたと思ったら、周辺の領主に攻められまたもや国外へ逃亡。そこから巻き返して佐賀を奪還し、龍造寺隆信の奇跡のようなサクセスストーリーが始まります。
現在の佐賀城周辺を本拠地として各地を転戦し、ピンチを潜り抜けながら合戦につぐ合戦。そうやって周辺の領主を切り従えて勢力を拡大していった龍造寺隆信。そのため、龍造寺隆信の足跡を追っていけば多くの城と出会う事が出来ます。
城とはそこにあるだけじゃ魅力は半分。そこで暮らした人々、戦った武人たち、そういったエピソードが繋がって面白さはさらに倍。そう、戦国の城を知って50倍楽しかったのが、これで100倍楽しくなるのです。
今回、縄張図で紹介した勢福寺城も龍造寺隆信の攻撃によって落城した城。城主はこの城で自刃しているんですよね・・・そして、勝利した隆信も後の戦いで戦死。まさに諸行無常。
下の写真は、勢福寺城を攻撃した龍造寺隆信が本陣を置いた姉川城跡。今でも立派な環濠を巡らせた平城跡が残っています。
最後に
龍造寺隆信が見た風景、時代は違っても山などの景色は殆ど変わらないでしょう。勝者と敗者、それぞれが実際に立っていた場所。その両方を訪れて妄想に浸る。過去の歴史と、現代の自分。同じ場所に立つことで、歴史の繋りをリアルに感じられる。そんな場所が佐賀には沢山あります。
今回はそんな楽しみ方を多くの人に知ってもらいたいと思い、この記事を書きました。
龍造寺隆信という希代の武将によって紡がれたストーリー、その足跡が当時の姿を留めて今も数多く残っている。そして現代、私がその場所を巡り、龍造寺隆信が見た景色を同じ目線で楽しめる。
重要文化財だとか史跡に指定されてるだとか、なんとか遺産だとか、そんなものは関係ありません。歴史に名を刻んだ英雄の目を通じてこの佐賀を見たとき、そこには言葉では表せない感動の歴史ロマンが広がっていました。
しかし、多くの人はその入り口すら見つけることが出来ず、旅行会社やマスコミの宣伝で特定のスポットだけを見に行きます。それでは楽しさのほんの一部しか体験できません。楽しむために必要なのは、興味を持って知る事です。今回は戦国時代を取り上げましたが、佐賀には弥生時代から古墳時代、幕末、明治、大正・昭和と各時代の様々な見どころが数多く残っています。何に関心を持つかは人それぞれ。
入り口を見つけ一歩を踏み出せば、その先には今まで見えなかった楽しさが広がっています。この佐賀ポータルが入り口を見つける切っ掛けになれたなら、サイトを運営する甲斐もあるというもの。
そのためにはまず、私が本気で楽しまなければなりませんね。
城跡を巡るのに適した季節は冬、真冬が一番。なんといっても虫が居ませんから。城跡を歩いていて、蜂に追いかけまわされたりすると最悪です。
この記事を書いているのは初夏、5月の終わり。あ~、いまから冬が待ち遠しい。どの城から回ろうか、楽しみですねぇ。
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