長崎街道「田手宿」佐賀の乱の激戦地に今も残る風情ある古い町並み。
吉野ヶ里町の田手地区は田手畷の戦い、佐賀の乱の決戦地として激しい戦いの舞台となった場所。
やっぱ田舎はいいですよね、昔ながらの街並みや歴史の痕跡があちこちに残っているんです。そんな街を歩きながら、過去の出来事に思いを馳せる。いやいや贅沢な楽しみですよ、田舎ならではですね。という事で、今回訪れたのは吉野ケ里遺跡のすぐ南にある「田手宿」です。
田手宿は長崎と小倉を結ぶ旧長崎街道に設けられた25の宿場ではありませんが、中原宿・神埼宿間の「間の宿」として栄えた宿場。ここ田手地区は佐賀の乱において最大の激戦地となったために多くの建物が焼けてしまいましたが、今でも古い建物が点在し、往時の面影を残しています。
田手宿は佐賀から続く国道34号線「吉野ヶ里町田手」交差点から南へ。角にあるスーパーモリナガなどショッピングセンターが目印。
ここから少し歩いて行くと、江戸時代のものと思われる追分道標がありました。
この道標は江戸時代後期にはすでに立っていたらしく、元あった場所から道路拡幅によって少し西へ動かされているそうです。この道標から北へ向かうと背振山の神社へと向かう弁財天道。長崎街道とのとの追分(道の分岐点)が、まさにここでした。
かなりシッカリと文字が残っているので、今でも何とか読むことが出来ます。
道しるべが立つ交差点を西方向へ曲ると、ここからが旧長崎街道。田手宿へと入っていきます。
入ってすぐ、恵比寿像がありました。
道端に何気なく置かれている石ですが、けっこう古そうですよ。
見てくださいコレ、佐賀はこんな広大な農地が至る所に広がっています。ほんとにね、空が広い。
宿場町だけあって、間口が狭く奥に長い敷地。
おっと、これは古そうな建物が見えてきました。
工場を併設している家みたいですね、重厚な造りの日本家屋です。
パン工房の看板がかかっていますね、営業していないのが残念。
この建物の脇から細い道を入ると、公民館がありました。知足庵とかかれた建物は、ここから北へ国道34号線と線路を渡った所にある「東妙寺」の僧房でしょうか。
脇にあった古い地蔵など。
どこか笑っているような、面白い表情のお地蔵さまもありました。
寛保という文字が見えますね、四とありますが寛保は3年までしかありません。西暦にすると1741年から1743年です。知足庵の向かい側は墓地になっていました。
長崎街道に戻って歩いていると、古い建物が点在していてとても風情がありますね。町屋のタバコ屋さんですよ、なんとも贅沢。
その隣にある家。もとは茅葺か藁葺の屋根だったんでしょう。少し角度を付けてみると、2棟を繋いだような構造になっています。これは面白い!ぜひ中に入りたいところですが・・・無理ですね。
タバコやさんの前から長崎街道を西方向、先で田手川にぶつかり直角に左へと曲がっています。
川に向かってしばらく歩くと醤油屋さんがありました。人手を使った昔ながらの製法で、地元の原料を使って作られる醤油は全国に多くのファンを持つのだとか。佐賀は各市というか、地区ごとに醤油蔵があるんですよ。都会だと大手に駆逐されてしまった地域の醤油蔵、佐賀は今でも伝統のご当地醤油が各地に残っています。ほんとね、スーパーで買う全国どこでも手に入る醤油とは全く別物。炊き込みご飯や煮物にすると、その差は歴然。私が九州に来て、一番気に入ったグルメは醤油かもしれません。ちなみに、我が家では家のすぐ近くにある醤油醸造所「ヤマタカ醤油」を使っています。
北村醤油も試してみたいなぁ、買っていきたいけど、ここは工場みたいです。気に留めておいて、見つけたら購入することにしましょう。
北村醤油の工場入り口に建つ6角形の建物。これもまたモダンというか、昭和初期とか大正時代っぽいレトロな建物です。
そして、その横に建つこの建物が圧巻!
ドーンと存在感のある大きな建物、一階の格子や板張りの外壁が見事。凄いですね、大きくて重厚な造り。圧倒されます。
その向かいには実に味のある建物。工場でしょうか、それとも倉庫かな?
とにかくレトロな建物がたっていました。
ちょっとお邪魔して・・・このレンガがとってもレトロでいい感じ。
大きな梁と時代を感じさせる扉。
いやいや、思った以上に見どころありますね田手宿。
さらに進んで川にぶつかり、直角に左へ。目の前に田手神社がありました。長崎街道田手宿という石碑も建てられています。
拝殿と本殿、かなり大きくて立派な神社です。
お寺の由緒によると、創建は約1300年前、天智天皇によって建立されたとあります。天智天皇といえば、あの中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)です。中臣鎌足と共に、大豪族である蘇我入鹿を暗殺、大化の改新を行った人物。
これはまた・・・すごい人が出てきました。
そして祀られている神様は「撞賢木厳之御魂向津媛命(つきさかき・いつのみたま・むかつひめ)」なんとも難しい名前の神様ですが、天照大神の荒御魂の事。天照大神の戦闘モードとでもいいますか、激しい一面が一つの神になったのが荒御魂です。
この荒御魂、神の怒りによる力の行使「神の祟り」をもたらすとして恐れられる一方、新しい事象や物体を生み出すエネルギーとして、大いに力を与えてくれる存在でもあります。
何か新しい事をはじめたい時、ここにお参りするとご利益があるかもしれませんね。起業や新規開業のパワースポットじゃないですか。
堤防と同じ高さに築かれた田手神社の拝殿。
神社から堤防にでて、田出川を撮影。江戸時代にはこの川に橋が無く、川底に置いた石を渡っていたそうです。っていうか、現在の水位だと石を置いて渡るなんて無理っぽいですよね。昔はもっと浅かったのでしょう。
堤防の上から田手宿を見ると、他にも古い大きな建物がいくつかあります。
こんな家紋の入った家とか、かつては商業地として大いににぎわっていたのでしょう。
ネットで田手宿を調べると、ほとんど画像も出てこないんです。たまに旅行ブログで長崎街道を歩いている記事もありますが「田手宿は佐賀の乱で焼かれて昔の面影は残っていない」と書かれている事が多く画像もほとんどない。しかし、実際に歩いてみると、古い民家などが思った以上に残っていて楽しく歩くことが出来ました。
この地は川を渡る橋が無かったという事もあり、佐賀藩の防衛拠点としての意味合いもあったのではないでしょうか。佐賀の乱においては、この地が最大の激戦地となっています。さらにそれよりも前、戦国時代初期には田手畷の戦いが起こり龍造寺家躍進のきっかけともなりました。まあ、周辺の地形を見ていると、ここから少し北に現在の吉野ケ里遺跡がある丘陵地が広がり、日吉城が現在の吉野ケ里遺跡内に築かれていたことから主戦場は少し北だったと思われますが。それでもこの宿場町も戦火に見舞われたのか、それとも佐賀軍が政府軍に使われないよう事前に放火したのか、正確なところは不明ですが激しい戦いを見守って来た地なんです。その時歴史は動いた・・・じゃないですが、佐賀における大きな歴史の転換点となった場所。歩きながらそういった過去に思いを馳せていると、歴史の連続性というか、自分たちの生きる現代が過去から繋がって来たものだと感じる事が出来ます。
うん、メッチャ楽しい。だから佐賀はやめられないんです。
「長崎街道 田手宿」
場所:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1527(田手神社)⇒ Googleマップへ
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