佐賀藩の城下町、古い道が残る佐賀市中心部「与賀神社参道」を歩く。
佐賀市内には旧長崎街道を始め、江戸時代城下町の姿を今にとどめる通りや小路が沢山あります。今回はそんな江戸時代から残る古い道「与賀神社」から西へと延びる参道を歩いてきました。
与賀神社は佐賀城の西にある古い神社。室町時代に建てられた楼門が有名です。
この近辺には古い建物が残っていて、まるで時間が止まったようなレトロな街並み。こういう場所が佐賀、とって付けたような観光整備がなされてなく、飾らない素朴な地方都市の風景に癒されます。
出発はここ、与賀神社の楼門からスタート。参道を真っ直ぐ西へと歩いて行きます。
与賀神社の境内にかかる神橋を渡っていると、左手にいきなりレトロな建物がありました。見た瞬間「おぉっ!」と声が出そうな存在感、こういう建物が普通の街の中に紛れてる。これこそ佐賀の面白さですね。
更に右手にもほら、木造の立派な町屋風の邸宅。古い建物を全部紹介していたらキリがないので、どんどん先へと進んでいきます。
佐賀らしいクリーク、市内に張り巡らされた水路。これも江戸時代に整備されたものが多く残っています。
県道54号線、大通りに出ました。右へ行くと国道263号線へと繋がり、ここから1時間ほどで福岡市内です。
正面に見えるTSUTAYAとかスタバの看板、福岡のスーパー「ゆめマート」もあります。県外企業の商業施設が目立つ佐賀。佐賀の消費を支えているのですが、美味しいところは本社がある県外へ持ち出し。佐賀には従業員の給料などが僅かに落とされるだけ。厳しい地方の現実がここにもありました。
大きな通りを渡って、江戸時代の道を進みます。
先に見えている鳥居は「与賀神社」二の鳥居。電柱には「旧山口亮一邸」の看板。
看板の矢印に沿って左に曲がると、見事な古民家「旧山口亮一邸」があります。くど造り、築約250年という立派な邸宅。
こんな建物が普通の街の中にポツンと建ってる姿が佐賀らしくて、なぜか安心するんです。素朴で飾らず、いい意味で田舎っぽい。こういうのが好きなんですよね。
旧山口亮一邸の記事はコチラ⇒http://saga-port.com/2017/06/7493/
先へと進んで二の鳥居をくぐった所で、鳥居を撮影してみました。鳥居の一部が無くなってますが、ずいぶん古そうな鳥居です。ネットで調べてみたのですが、二の鳥居の情報が無い。
この二の鳥居の近くには老舗の菓子舗「鶴屋」があります。寛永16年(1639年)創業で、佐賀藩御用御菓子司も務めた名店。江戸時代に作られた菓子のレシピなどが残る、佐賀を代表する和菓子店。丸房露の元祖としても有名で、ここの丸房露は表面がサクッとして本当に美味しい。佐賀に来たらぜひ食べてもらいたいお菓子で、派手なインパクトはないけど素朴でジワーッと沁みて来る優しい味がたまりません。実に佐賀らしいお菓子です。
通り沿いにある肉屋もいい雰囲気ですね、レトロで絵にかいたような「町の肉屋さん」。
更に進んでいくと普通の住宅街になってきました。
一見するとどこにでもある普通の住宅街のように見えますが、ここにも昔の街並みが残っています。それがこれ、棚路(たなじ)という施設。この通り沿いに数か所ありますね。
まだ水道が整備されていなかった時代、江戸から明治、大正初期まで生活用水を各戸に供給するのは水路でした。ここはその水くみ場、江戸時代に作られた公共施設が今も残っています。
続いて肥前ビードロで有名な「副島硝子工業」がありました。明治36年(1903)創業の老舗で、江戸時代末期のガラス加工技術を今に受け継いでいます。
副島硝子工業の前身は幕末佐賀藩の研究機関「精煉方」で、現在では肥前ビードロの技術を受け継ぐ唯一の工房です。作品は工房内で展示販売しているので、興味がある方はぜひ立ち寄ってみてください。
ここから道が少し狭くなり、いかにも城下町の道っぽくなってきました。
この公民館を見てくださいよ、とってもレトロな建物。
この民家も迫力ありますね。
古い建物が点在する住宅街を抜けて、少し広めの通りを越えると先の方に寺や白壁の屋敷が見えてきました。ここからが明治時代の街並みを残す道祖元町(さやのもとまち)白壁通りです。
寺の周りを堀のように流れるクリーク。
どうですか、佐賀のクリークは美しいでしょう。こういう風景が、観光地ではなく普通の街並みとして残ってるんです。
この辺りは明治時代の高級住宅地。神埼市にある有名な「九年庵」の庭園を造った伊丹弥太郎の邸宅もありました。このお寺「専修寺」は、その伊丹一族の菩提寺です。
専修寺の隣に立つのが「道祖神社」与賀神社の末社で、交通の神様を祀る神社です。
こういう歴史ある場所には必ず関係してくるのがこの人「龍造寺隆信」もはや佐賀が誇る様式美、どこにでも出てきます。それほどの活躍をした偉大な人物なんです。
この場所は龍造寺隆信の大ピンチ、大友軍による佐賀村中城包囲戦に関わる場所。1570年3月に始まった侵攻作戦、龍造寺軍は龍造寺村中城(現佐賀城)に籠城します。龍造寺軍は全方位、見渡す限りを敵に囲まれながらも頑強に抵抗し長期戦に突入。業を煮やした大友軍が総攻撃を決定した8月、龍造寺軍は乾坤一擲の奇襲攻撃を敢行します。そう、今山の戦いです。
この神社は今山への奇襲攻撃をする部隊が集結した場所。奇襲部隊を率いる鍋島直茂が、この神社付近で加勢を待ち軍をそろえて出陣。見事に勝利しました。
記録には残っていませんが、ひょっとしたらこの神社に参拝したかもしれませんよね。いずれにしても、今山へ出陣する直前の龍造寺軍と鍋島直茂がこの場所にいたんです。時代は違えど同じ場所に立ち、過去の姿に思いを馳せる。これぞ歴史ロマン、こんな場所が佐賀の至る所にあります。
道祖神社の境内に、デフォルメされた姿が人気の肥前狛犬がありました。すっかり削れてしまってはっきりとした姿は確認できませんが、かなり古い物じゃないでしょうか。
社殿の横には稲荷神社。
神社境内から参道の方を見てみると、立派な屋敷がありました。
参道に戻ると白い漆喰が見事な屋敷、白壁通りと呼ばれるのも納得。
程よく汚れている壁が、リアルに歴史を感じさせますよね。綺麗すぎるより断然いいです。
向かい側にも見事なお屋敷があります。
こちらはお店になってるようなので、中を覗いてみると11:30から15:00までの営業。定休日が月・火曜。佐賀って店がスグ閉まるんですよ、15時になると大手チェーン以外の飲食店は殆ど閉まります。
空地越しに見る道祖元町のお屋敷。大きいですね、迫力満点。
ここまで来ると、与賀神社の参道も終点が見えてきます。先の方に見えてる鳥居が一の鳥居。
一の鳥居の少し手前、左に曲がる道があります。そこを曲がると、かつて人柱となった娘さんを祀る観音堂があります。
この辺り一帯はかつて港町でした。海路で長崎へ向かう出発地として整備され、緊急時にはここから藩の船が出るための基地が設けられていました。
観音堂関連記事⇒http://saga-port.com/2017/06/7621/
観音堂へと曲がる角を直進すると、与賀神社一の鳥居がありました。この鳥居が建てられたのは1640年、元はここから300メートルほど東(与賀神社寄り)に建てられていたそうです。この鳥居が参道のスタート地点、与賀神社まで長さ約1200メートルの直線道路です。
さらに参道の突き当りには与賀神社の下宮があります。ここには倉庫のような建物しかありません。
与賀神社から続くこの参道は祭りの際に神様が通る道であると同時に、佐賀藩専用の海の長崎街道でした。佐賀城から与賀神社の参道を通り厘外津、今津、相応津へ至り、海路諫早へと向かいました。
特に一の鳥居がある末広1丁目には長崎で異変が起きた際に緊急出動する船の基地が整備され、干潮時で川の水位が低くても出航できるようにダム湖を作って水を貯め、船を押し流す大掛かりな設備がありました。この基地を即刻座といい、建設時に人柱となった女性が祀られた観音堂が今も残ります。
即刻座や厘外津という港がどこにあったのか、探して見に行こうと思ったのですがネット上では見つけられませんでした。佐賀って本当に情報が少ないし、あっても見つけるのに苦労します。ちょっと詳しい事になると佐賀からの情報発信ってほとんどないですもんね、一部のマニアや専門家がブログなどに調べたことをアップしてくれてるのを探すしかない。
だからこそ、その穴を埋めようと佐賀ポータルを始めたんですけど・・・まだまだ時間が足りず情報を集めきれていません。
もし何かわかったら、その時は改めて記事を書きます。乞うご期待。
「与賀神社参道」
MAP:佐賀市与賀町2−50(与賀神社)⇒ Googleマップへ
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