これは凄い!見ごたえ十分の城跡です。
「須古城」龍造寺隆信が全盛期に居城とした城、総石垣造りの近代的な城だったようです。
佐賀市から西へ、佐賀県杵島郡白石町には龍造寺隆信が居城とした「須古城」の跡があります。守護家「少弐氏」を討ち、宿敵「神代氏」を傘下に収め大友の大軍を打ち破った龍造寺隆信は、肥前国東部を手中に収め西進を開始します。そこに立ちはだかったのが肥前西部に大きな勢力を誇った「有馬氏」の勢力。その最前線が杵島郡白石町の豪族「平井氏」でした。
須古城はその「平井氏」の居城で難攻不落の堅城としてしられ、1563年から1574年まで4度にわたって龍造寺隆信の侵攻を受け落城。その後、龍造寺氏の属城となり、1578年に隠居した龍造寺隆信の居城となりました。1584年に隆信が討死すると弟の信周の居城となり須古鍋島藩となりました。
須古城は西300mほど離れた場所に「杵島城」、東500mほどに「男島城」という支城を築き、3城が連携して防御に当たる堅城でした。
犬山城展望台から見た須古城。
写真で見ると平野にポツンとある小山で大軍で囲めばすぐに落とせそうに見えるのですが、戦国時代当時は西が百町牟田といわれた湿地帯で兵士が身動きが取れず、東は男島城、南には二重の濠と高い塀を築き多数の櫓を設置、北側は岩場で一騎がようやく通れるほどの小径しかないという、かなり堅固な城だったそうです。
現在の遺構は龍造寺氏になってからの物と思われ、その規模は主要部だけで東西に560メートル、南北に580メートルだったと確認されているそうです。佐賀城の広さが800m四方、築城は1611年となっているので、須古城の完成当時は佐賀最大の城だったと思われます。現在は城の東側が須古小学校となっていて、平地を平城とし山を詰城とした平山城だったと思われます。
小学校の門前から、山城部を撮影。小学校がある平城部から山城部を見ると、当時の様子を想像しやすいです。
須古小学校の前には、須古城の説明が書かれた看板が立っています。
コチラは城域の地図ですが、色あせているのが残念。新しい物に替えてほしいな~…
頂上へは小学校奥から道が作られていて、簡単に登ることが出来ます。小山の南東部に当たる部分は岩場になっていて、北東方向に張り出した郭の様になっています。現在は小学校のプールになっていますが、ここも東面と北面を防衛する重要な施設だったのでしょう。
山に近づいてみると、岩がゴツゴツとしていて上る場所が限られているのが解ります。この場所は岩と岩の隙間のようになっていて、天然の竪堀のようになっています。これは攻めにくそうです。
登り口はコンクリートで固められた通路、簡単に登れるように整備されています。
南東面から城の南面へと続いて行く帯曲輪があります。
北東角には見張り台に丁度良さそうな場所があり、ちょうど写真の左手は曲輪があります。ここは北東に張り出した岩場の真上、プールが真下に見えます。下の段が落ちても、ここから狙い撃ちですね。
北東角からの眺め、正面に見えている小さな山が「男島城」です。この真下がプール、張り出した郭のようになっています。そこからここまで登るのは急斜面の為に困難でしょうね。東から山を登ろうとすると湾曲しているので隠れる場所が無く、登っている途中で上の3方向から集中砲火を浴びてしまいます。
帯曲輪に戻って城の南面へと進んでみます。とにかく竹の密度が濃くて、周りの様子が分かりにくいです。さらに歩きにくい、凄い竹林です。
帯曲輪がだんだん広くなっていき、郭のようになってきました。
歩いていると、アチコチにこのような石積みを見る事が出来ます。切岸によって急斜面が作られ、石で固めていた事が分かりますね。
切岸と郭、相変わらず竹が凄い。自分が城のどの部分にいるのか分からなくなってきました。
すると、虎口のような場所を発見!うひょ~っという感じで、テンション上がりまくりです。
この周りにも、沢山の石積みがあります。石垣萌えです、これは凄い。
ココにも見事な石積み、これは何かの入口跡でしょうか。角の部分です。
虎口からさらに上を目指します。この辺りは段々に郭が配置されていて、上に登る場所には虎口のように鍵状に曲がった通路がありました。
いよいよ主郭がある頂上が見えてきました、ここにも石積みがあります。
ここも通路があったと思われる場所、壁には石積みが残ります。
主郭の北西側、一段下がった郭に残されている石垣。この石垣が、最も保存状態が良さそうです。
いよいよ頂上、主郭に到着!写真は主郭西端にある土塁と石積み。
主郭の付近の郭から下を見ると、郭が段々に配置されているのが解りますね。
さて、ここが頂上です。主郭部はかなりの広さがあります。通路が整備されている正規の登山口は、ちょうど反対側。写真の正面奥です。
主郭部には大きな石積みが残っていました。
この岩は鉄砲の弾除け岩と言われているそうです。
頂上から北東方向の眺め、他の場所は木々に囲まれていて見晴らしがよくないんです。この方向が龍造寺軍の進軍ルートを見る事になるので、かつて平井氏が防衛戦を戦った時はここから闘いを眺めたんでしょう。
須古城跡の周りには石垣に使っていたと思われる石が沢山あります。須古小学校の石積みも、須古城跡で使われていたものだそうです。この石の量から見ると、戦国時代の山城ではなく桃山時代や江戸時代初期に築かれた総石垣の城に近い姿をしていたのかもしれませんね。山を下りた所にある公園の石も、古くて城で使われていたっぽいんです。
さらに、ここは山の麓、南東に残る竹林の中です。平地と山の境目の部分なのですがいきなり石積みがあり、ここから上に向かって段々に石積みが残っているんです。通路のようになっている形状からして、何かしら城の入口があったと思われます。小学校にあった須古城周辺図ではここから道が上に向かっているように書かれているので、この辺りに大手があったのかもしれません。
龍造寺隆信が居城とした際には堀があったそうですが、南北の外堀は江戸時代に埋められ、現存するのは東側の一部だけのようです。
途中で登山道から外れてぐるっと南から西へ回りながら頂上まで登ってみたのですが、思った以上に遺構が残っていて見ごたえのある城跡でした。総石垣づくりの平山城、残っていたらさぞ立派な城だったことでしょう。構造が複雑なだけに、佐賀城よりも遥かに見応えがあるというか、面白い城だったはずです。
また、実際に登ってみて思うのは、周りを急斜面に囲まれ岩場と石垣を巧みに使った城なので攻めるのは大変だろうという事です。第4次須古攻めでは須古城が主戦場となり、激戦が繰り広げられました。今回、私が歩いていた場所で多くの兵士が戦い、傷つき倒れて行ったのでしょう。450年ほど前の事なのですが、当時の人たちの事を思いながら山を歩くと合戦の光景が瞼に浮かんでくるような気がします。
須古城、本当に見応えのある城跡でした。もし叶うならば、もう少し木を伐採したり竹をどうにかして頂きたい。視界が遮られて、せっかく綺麗に残っている遺構を十分に楽しめないんですよ。予算的に伐採や抜根が困難なら、せめて調査結果を元にした城の図面をどこかで見れるようにしてほしいですね。
図面だけでもあれば、楽しさは更に100倍くらいになるんです。ぜひお願いしたいですね。
「須古城跡」
MAP:佐賀県杵島郡白石町堤 Googleマップへ
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