勢福寺城主郭へ
いよいよ長かった勢福寺城跡見学の終わりが見えてきました。ようやく主郭へ、本当に長かった。見て回るのも二日間かかってますし、この記事を書くのも二日にまたがっています。けれども、まだまだ見落としたところがありそうなのが勢福寺城、本当に素晴らしい城です。
在りし日の姿を見てみたかった。
ということで、前項から引き続き険しい岩場からのスタート。凄まじい堀切、そして竪堀です。これを越えればこの城の中心、主郭があります。
岩場を抜ける途中に石積みのような遺構を見つけました。中世の山城らしくほとんど見かけなかったのですが、主郭は今までの郭とは少し違うようですね。
土橋のような狭い通路を抜け
遂に主郭へとたどり着きました!
ここが勢福寺城、籠城時の中心です。城跡の主郭といえば、殿様が住んでいた場所と思う人が多いと思うのですが、この城は敵襲の際に立てこもる城塞。普段は麓の城や館に居るのが一般的。なので、戦時以外は使用することが無かったはずです。
主郭から下を見てみると、もう一段下に郭がありました。しかし、垂直に近い崖、明らかに人工的に削られた切岸ですね。
ここが主郭への正規の入り口、虎口です。桝形になっていますね、桝形とは一つ目の門をくぐると空間があって正面が壁、左か右にもう一つ門があり直角に曲がらなきゃいけない上に、門を破るまでのあいだ閉じ込められてしまうという形。ようするに、四角い桝のようなスペースに入ってしまうと十字砲火を浴びるという死地です。ひえ~。
さすがに桝形とはいっても、桃山時代や江戸初期のような巨大な城のものとは違います。山城の施設ですから、規模はかなり小さいです。
虎口から下へ降りていくと、小さな曲輪が段々に配置されていました。
入って来た場所の反対から主郭を撮影してみました。かなりの広さがあります。
この主郭は一番高所にあり、周りは全て断崖絶壁。人工的に削られているので、順路を下りていくのも大変。
これを降りるんですよ。
このように一段下がって張り出した曲輪がいくつかありました。
これは何でしょう、空堀跡でしょうか。それとも犬走り?
降りてきました、入って来た道からみて主郭の奥にある郭です。
外縁部の土塁跡が見事に残っていますね。
ここが、この郭の虎口。ここから狭い犬走りのような通路へと繋がっています。
ここにもありました現在位置表示。ほんとに、ほんとに助かります。もうね、こんな山のなかを地図もなく歩いてると、自分がどこにいるか分らなくなるんですよ。
この郭から主郭を見上げてみました。
この郭もかなり広い。というか、勢福寺城がデカい!
この郭は城を迂回して山側からの攻撃を防ぐ目的があったんじゃないかと思います。縄張図を見てみると、この郭の北側に張り出した郭と切岸や竪堀がありますもんね。北側の先に設置された防御施設の、指揮所的な役割があったんじゃないでしょうかね。虎口も北を向いていますし。
さて、ここから更に一段下がって最後の大きな郭へと向かいます。ここもなかなかの急斜面。
そして降り立ってみると・・・でけぇ~!
とにかく広い郭です。
ここも大きな土塁が残っています。
この郭の虎口。さすがどの郭も入り口がとても狭い。純粋に戦うためだけの城ですから、人が通りにくいようにして出入り口を守り易くしていますね。
郭の端っこまで来ましたので、少し降りてみる事にします。ここからは、城跡見学のルートから外れます。
山の斜面に竪堀のような溝がありますね。
半月上の開けた場所がありました。そこから郭を見上げると・・・ここは死地だ。斜面を登って来た敵が、ここを制圧して平らな場所に出て一息つこうものなら・・・扇状に広がった高所から包み込むように飽和攻撃を受けます。ここに石が降ってきたらなんて、考えただけでも恐ろしい。
ルートを少し外れると、このような天然石で足場の悪い場所がありました。
これは岩場を利用した竪堀でしょうか。すごいですね、さすが名門少弐氏が最後の居城にしただけあります。巨大で堅固な山城、もうね、まいりました。
もっといろんなところを見に行きたかったのですが、時間的に厳しかったんですよね。ここまで見ただけでも、約2時間かかっていました。それでも遺構がとても綺麗に残っていて大興奮の連続、さすが屋根のない博物館。佐賀の凄さは、こういうところなんです。戦国時代の遺構が、唸るほど眠ってるんですよ。まだまだ行きたいところがある、全部回りきれるかな・・・週5勤務で働きながら農業も始めましたからね、ちょっと心配。
最後に、山をおりて城原から大通りに出たところにある「真正寺」
ここには少弐家最後の当主「少弐冬尚」の墓があります。
少弐冬尚は1559年、龍造寺隆信の攻撃を受け自刃。平安時代から続く藤原氏の地を引く名門、源氏の御家人として元寇でも勇名を馳せた少弐家は滅亡しました。
最後の当主の墓は、境内にひっそりと建っています。
今回紹介した勢福寺城は1353年、九州探題・一色範氏の子で肥前守護の一色直氏により築城されたそうです。その後、菊池氏、少弐氏、大友氏、大内氏、龍造寺氏と城主が変わります。このうち、九州の菊池氏、大友氏、少弐氏、龍造寺氏は元をたどると藤原氏の一族。同じ一族同士で争い、血を流しあったんですね。
肥前佐賀の戦国時代は、現山口県、周防長門の大内氏と、現大分県、豊後の大友氏、そして大宰府の少弐氏、地元の龍造寺氏が常に争い続けた地。龍造寺隆信が平定するまで、泥沼の争いを続けていました。少弐氏滅亡後の勢福寺城は、少弐の重臣であった江上武種が城主となり龍造寺勢力の重要な支城となりました。その後、1589年に江上武種が蓮池城に移ると使われなくなっていったようです。
諸行無常・・・ですね、大いに繁栄した城原の地も今は昔。まさに寂びの風景。いいなぁ佐賀。
最後に一言
いやはや、久しぶりの長編記事。最初は記事を一本ずつ分けようかと思ったのですが、やはり全部合わせて一つの城という一体感を出すには一本の記事にまとめたほうが良いだろうと思い4ページの記事にしました。
勢福寺城はずっと気になっていた城なのですが、規模が大きいために手を出しにくい場所でもあったんです。実際、二回に分けて訪れた内容を一本の記事にまとめているのですが、それでも見落とした場所もあります。それくらい見どころ満載、スゴイ城跡でした。
何度も言いますが、佐賀にはスゴイお宝のような歴史遺構が数えきれないくらいあります。もっとこれを活かすべきだと思うんですよね、地域の公民館の一室に展示室を設けて出土品や発掘調査時の写真。出来れば復元模型、だめなら復元図のような物を置くなりパンフで配るなりすれば見に行く楽しみも100倍になります。また、遺構にまつわる歴史的な事実なども併せて紹介し、合戦場跡などの解説もあれば文句なし。そんな公民館を県内に数か所用意して、屋外の遺構や所縁の地をあわせれば本当に屋根のない博物館ですよ。
たとえば勢福寺城だと、城攻めの際に龍造寺隆信が本陣にした姉川城、小田政光が討死した長者林の合戦、蓮池城などなど関連する場所があります。そこから龍造寺VS少弐の泥沼の戦いに繋がって、三瀬の神代勝利なんかも繋がる。さらに白石の須古城へ飛び、そこから須古城攻めの本陣があった大町へ飛び、有馬氏VS龍造寺で江北へ飛ぶ。龍造寺隆信に落とされた伊万里城、鳥栖や柳川だって龍造寺隆信のストーリーの中にあるんです。そして最後は諫早まで飛んでいく。そういった場所の近くにある公民館に資料室があれば、それをめぐる歴史好きのツアーだって可能になるんですよ。個々の場所や遺構を孤立させるのではなく、市町村の行政区をまたいで歴史というストーリーの中で連続性を持たせて見学できるようにすれば好きな人は勝手にまわっていきます。ほんと、そんな場所があれば面白いんですけどね。
龍造寺隆信は福岡、博多から糸島市、長崎に筑後まで各地へ転戦したわけですから、それを追体験するように実際の遺構と、もよりの資料室をまわるような楽しみ方が出来たら本当に面白いです。
先日アップした「東名縄文館」の記事中でも書きましたが、本当に何かの施設の一室でいいんです。新たに人を雇うのではなく、常駐しているスタッフがいる施設の一室を利用する。そこへ歴史資料などを基にした展示を行い、より深くその時代へと感情移入してもらう。そんな取り組み。夢物語ですけど、出来ないものでしょうかねぇ。東名と吉野ケ里、別々に独立してしまってるのがもったいない。佐賀の古代史というくくりで連携させて、巡回してもらえるような取り組みって出来ないんでしょうか。
ほんと、佐賀を回っていて思いますが、とにかくこんな素晴らしい遺構と歴史的なストーリーを活用しないのはもったいない。ほんと、なんとかならないのかな・・・
「勢福寺城跡」
MAP:神埼市神埼町城原2618(城山登山口がある種福寺)⇒Googelマップへ
最新情報をお届けします
Twitter で佐賀ポータルをフォローしよう!
Follow @SagaPortalCopyright © 佐賀ポータル All rights reserved.