莞牟田縄手「長者林の戦い」龍造寺本軍は動かず!小田政光の壮絶な討死に

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場所などははっきりしていませんが、私の解釈で書いてみました。

まち情報:戦国佐賀

小田政光痛恨の失態、先陣の将が揃って討死した壮絶な戦いの地「莞牟田」

肥前蓮池城主「小田政光」は、一時期は龍造寺氏と方を並べるほどの有力な豪族でした。龍造寺氏が力をつけるに従い、それを快く思わない国人たちと手を結び龍造寺氏を急襲。一族の多くを討ち取り、筑後へと追い落とします。龍造寺家兼が佐賀の所領を奪還し、隆信が家督を継いだ後も少弐氏に従う神代、江上氏などと共謀して再び筑後へと追い落とします。二度も佐賀を追われながら、筑後にて力を蓄えた龍造寺隆信は佐賀へと戻り、小田政光の居城「蓮池城」を攻め、政光は龍造寺隆信に下り臣従します。

小田政光の居城「蓮池城」の堀跡

蓮池城浮島2

1558年初頭、八戸氏を下し佐賀郡の平野部、川の下流域一帯を支配下に置くことに成功した龍造寺隆信は、佐賀郡内の支配をゆるぎないものにしました。そして、いよいよ東肥前を支配下に治めるべく行動を開始します。

同年10月16日、佐賀の北部山岳地域平定の為に、山岳部山内地域へ侵攻します。しかし、山内を支配する少弐方の猛将「神代勝利」に敗れ、山岳地帯に籠る神代勝利を攻めるのは容易ではないと判断した隆信は、その力を削ぐべく神代勝利の主家である少弐氏を討つための準備を開始。

11月の始め、少弐方最大の拠点である江上武種が守る勢福寺城侵攻を開始。軍勢を整えて、姉川氏が治める姉川城に入城します。隆信の動きを察知した勢福寺城の江上武種は山内の神代勝利に援軍を要請。11月9日に神代勝利が援軍として勢福寺城に入り、城原川沿いの神崎郡国人衆(城原衆)と共に莞牟田と神埼口の二手に分かれて迎撃の為に出陣します。

龍造寺隆信が本陣を構えた姉川城。神埼市神埼町姉川字二本杉

姉川城上空写真

画像:国土地理院

1558年11月10日、龍造寺勢は蓮池城の小田政光率いる蓮池勢に先陣を命じ進軍させます。兵力は、援軍として本告頼景を加えて約3000。一方、迎撃のために出陣してきた少弐勢、神代、江上率いる山内、城原衆も約3,000。ほぼ同数の兵力で、莞牟田縄手の長者林で激突。戦端が開かれます。

本告氏が居城とした本告城跡。佐賀県神埼市本告牟田。

本告城トップ

さらに龍造寺勢は莞牟田から進軍する小田勢と別に、神埼市南部一帯を治める国人である犬塚氏が神埼口に向けて1,500余騎を率いて進軍。神埼口の大手門付近で少弐勢2000と激突。

攻められる少弐方も城に籠るのではなく積極的に討って出たために、ほぼ同じ戦力同士の激戦が繰り広げられます。

直鳥犬塚氏の居城直鳥城。神埼市千代田町直鳥

直鳥城野鳥

戦場の正確な位置は定かではありませんが、莞牟田については凡その場所は解っています。

神埼口も調べてみると神埼口の大手門と書いているサイトもあるので、おそらく街の入口となる門があったと思われます。そこで地名を見て行くと、ちょうど犬塚氏の勢力圏から北に大門(だいま)という場所があります。

他に何の手がかりも無いため、ここが神埼口の合戦場と認定!勝手に決めます、いや、決めました。

ということで、私の勝手な解釈により作成した合戦図を作ってみました。

莞牟田縄手合戦

う~ん、大門が少し不自然かな?神埼口の大手門が解らないんですよね。莞牟田の小田氏が戦った場所は、正確な位置は解らなくても凡そこの辺りなんですよ。神埼口が解らない・・・

大門に残る環濠集落、畑を耕していたお爺さんによると城があったらしい。詳細不明との事です。

野鳥の撮影スポットとして有名な、大門の環濠集落跡。

大門城跡

渡る橋が無いので中に入っていけませんが、佐賀平野特有の濠の中に浮島状の郭が配された環濠平城のように見えます。

大門城跡2

地名だけで決めてしまった神埼口ですが、かなり古い環濠集落だったそうで、戦国時代には存在していました。

ひょっとしたら、勢福時城に続く神埼の防御拠点だったのかもしれませんよね?いや、そうだったんですよ。という事にしました。

神埼口の戦いは少弐勢の勝利となり、犬塚氏は撤退します。

龍造寺隆信は用心深かったようで、一部の戦いを除いて有利な条件を整えてから合戦を始めています。なぜ兵力差で不利になっている神埼口を放置したのでしょうか。その原因は、莞牟田の小田勢の戦いにあったのです。

「姉さん事件です!」です。

神埼市のメインストリート、国道34号線沿いにある莞牟田の様子。

莞牟田

こんな看板も立ってます。

莞牟田看板

少弐勢の主力、神代・江上連合軍と激戦を繰り広げていた小田・本告連合。敵は戦上手、龍造寺隆信の宿敵として名高い神代勝利。すこしずつ押されはじめ、小田勢の先陣が崩れ始めます。

このままでは勝ち目無しとみた小田政光は、1キロも離れていない隆信率いる本陣に援軍を要請します。しかし、ここで事件が起きます。

「本陣は動かず・・・」

先陣は崩され戦況不利、頼みの援軍はくる気配なし。

援軍要請を無視された小田政光は激怒し、死を覚悟して敵勢に切り込みをかけます。小田政光は武勇の人で、刀槍の達人だったらしく神代・江上勢も手を焼いたそうです。

そこで兵を下げ弓で遠距離から狙い撃ちを命じ、小田政光は四方から討ちかけられた弓に当たって落馬、首を討ち取られました。主を討ち取られた蓮池勢は、敵軍から首を奪い返すべく猛攻撃を加え60余騎が討ち取られました。

さらに、援軍として駆けつけていた本告義景も討死していることから、長者林の戦いと呼ばれる莞牟田での戦いは先陣の大将二人が討死する壮絶な戦いだったようです。

莞牟田は国道沿いの建物を除くと、見渡す限りの田園地帯。写真は莞牟田から姉川城方向を撮影、小田政光もこの方角を見たのでしょうか。

「くそったれ!」と罵りながら睨みつけていたのか、龍造寺への忠誠を認めてもらえない事に悔し涙を流したのか・・・どっちだったんでしょうね。

莞牟田姉川城方向

本当に見晴らしの良い場所なので、私が見回した景色のどこかに二人の将が打ち取られた場所があるのでしょう。そう思うと、ただの田園風景を見ていてもこの地の歴史をリアルに感じる事が出来ます。

人の世の連続性というか、時間や歴史の延長上に自分が存在していて、さらにこの先に続いて行く。うまく表現できませんが、自分自身も歴史の一部なのだと感じますね。諸行無常、心に沁みてきます。

この小田政光の見殺しについて、一般には長く敵対し一族の多くを失った隆信の恨みによるものだといわれています。

しかし、違う見解もあるようです。

その普通の事を龍造寺隆信が行うと、何故か「昔の事を根に持って報復した」とか「神代たちと噛みあわせて互いの勢力減退の為に潰しあいさせた」などと悪い方に解釈されます( ̄ω ̄A;アセアセ
龍造寺隆信の残忍・残酷という刷り込まれたイメージが余りにも先行しています。

今回の場合、重大な失態を犯したのは小田政光の方なんです。元敵将で新参の身でありながら「援軍を求める」とは、一体全体どういうつもりなんでしょうか。
同じ元少弐サイドの武将で先陣として従軍してた者の中で、ピンチでも援軍を~だなんて泣きつく武将は一人もいませんでしたよ。小田の援軍要請は、配下としてヤル気を疑われるか、寝返りを疑われるレベルの大失態です。

【讒言の報酬・後編】龍造寺隆信「覇」の巻26~九州戦国史~室町末期から江戸初期まで~

なるほど、私がいつも参考にさせて頂いているブログからの引用なのですが、小田政光が先陣を任されたのは龍造寺に従う覚悟を計るためだったんですね。

本来ならば新参の配下である小田は、今後を龍造寺配下として生きるための覚悟の出陣でなければならないんです。
であれば、どんなにキツイ戦場でも援軍要請なんて出せないはずです。裏切りでなくとも、援軍要請は小田が龍造寺配下に成りきる腹が据わってない事の証です。

小田政光は隆信が己の援軍要請を無視してる事に気づくと同時に、龍造寺配下として生きるための覚悟を「衆目の中」で促された事に、いまさらながら気づいた・・・

武将として「戦場における覚悟」を「人から促される」って、とんでもなく恥ずかしい事です。
ここで負けて生きて帰ろうものなら、他の龍造寺勢たちから「嗤」「哂」の漢字を使われる嘲笑を生涯受ける事、間違いなし。
「ここで討死する!!・゜・(PД`q。)・゜・」って小田の決意は、むしろ当然の事です。

【讒言の報酬・中篇】龍造寺隆信「覇」の巻25~九州戦国史~室町末期から江戸初期まで~

なるほど、兵力は拮抗していましたし、撤退しようと思えばできたはずなんです。本隊ではなく先陣ですから、背後には有力な兵力が後詰しているんですよね。なので、ここで玉砕戦をする必要はないんですよ。

いったん引いて、本隊からの増援を得て反撃に出ることも出来たんです。なのにしなかった・・・小田政光は自分の過ちに気付き、覚悟の討死をしたのかもしれませんね。

龍造寺隆信=残虐という事になっていますが、決して残虐な武将ではありませんでした。敵であっても降る者は許し、一族を手にかけたこともありません。ただ、裏切り者に対しては、とても厳しい対応をしています。戦国時代には、裏切りが日常茶飯事でした。なので、裏切り者は隆信に限らず、どの大名でも厳しい対応をしています。

話を戻します。

さて、今回の勢福寺城攻め、結果はどうなったのでしょう。

小田政光の討死にを知った龍造寺隆信は、太鼓を打ち鳴らして本隊を前進させます。さすがに同兵力との戦い直後に、新たな敵勢にはかなわないとみた神代・江上連合軍は現在の吉野ヶ里歴史公園内、日吉神社の場所にあった日吉城まで引いて籠ってしまいます。

そのまま龍造寺隆信は勢福寺城まで進軍し、城を囲みます。11月15日には別動隊を組織し小田政光の居城「蓮池城」を攻撃します。主君を見殺しにされた小田一族が、恨みを持たずに龍造寺に臣従するとは思えません。地理的にも佐賀村中城、水ヶ江城といった龍造寺の本拠地に近すぎます。なので、危険な勢力は排除するしかなかったんでしょう。

このあと蓮池城は龍造寺隆信の三男「後藤家信」から鍋島直茂まで、龍造寺一門が城主を務めています。この事から見ても、蓮池城の立地は龍造寺にとって重要な場所だったのでしょう。そんな場所に、いつ裏切るか分からない勢力を置いておく事は出来ません。

蓮池城が落城した際に逃げる事が出来た政光の子供たちは、後に許され隆信の家臣となり江戸時代、佐賀藩士として肥前小田氏は続いていきます。

という事で、またまた佐賀にまつわる歴史を掘り起こしてみました。遺構も数多く残されていて、歴史を感じるには最適な場所ですね。もっと佐賀県は龍造寺の時代にスポットをあてても良いんじゃないでしょうか、これだけ戦国時代の遺構やエピソードが残されているのにもったいない。

「莞牟田縄手、長者林の戦い」

MAP:佐賀県神埼市神埼町本告牟田周辺



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コウテツタクヤ編集長

投稿者プロフィール

非正規社員で非正規農家、非正規ウェブメディアの自称編集長と、もはや存在自体が非正規じゃないかと心配しながら暮らす”負け犬”ダメ中年。
起業に3回失敗しながら、全く懲りない永遠のチャレンジャー。

いつの日か、負け犬からハイエナに進化できる日を夢見ています。

大阪で生まれ、兵庫のベッドタウンで育ち、航空自衛隊に7年間勤務したのち就職。転勤族として全国を転々としながら時どき起業して失敗。その都度転職を繰り返し、気が付いたら福岡の片隅に流れ着いておりました。

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