戦国時代の環濠平城、縄張りがほぼ原形をとどめていて素晴らしい城跡です。
直鳥城は佐賀特有の環濠平城、往時の縄張りが綺麗に残っている素晴らしい城跡です。
龍造寺隆信の肥前攻略前半における最大の山場ともいえる、東肥前攻略、対少弐戦。この直鳥城も、当然ながら大友、龍造寺、少弐といった大勢力の争いによって戦乱に巻き込まれていきます。直鳥城は16世紀初頭に築城された佐賀特有の環濠平城。縦横に張り巡らされたクリークを濠として、浮島が点在するような独特の縄張りを持つ城です。
現在は直鳥クリーク公園として整備され、築城当時の縄張りを残す貴重な城跡として保護されています。
城の北側中央部あたりに駐車場があり、そこから中へ入っていくと見事な濠が目の前に広がります。
土橋を渡り、その先には浮島状の郭があります。
郭から橋を渡り、主郭があったと思われる方向へ。細い土橋状の通路、細い通路で2列縦隊が限界でしょう。虎口のように鍵状に曲がっており、モタモタしていると周りの郭から集中砲火を浴びそうです。
主郭東側の郭から、土橋を渡って更に東の郭へ通じる通路。城の東口にあたるのでしょうか?
城跡中央部にある一番広い郭、主郭部として城館が築かれていたと思われます。
主郭から北西方向。
案内板にあった現存する城の縄張図。直鳥城の凄い所は、この図面通りに遺構が残っているところ。各郭間の通路が狭く、大軍で攻めるにはかなり苦労しそうな城です。素晴らしい遺構です、感動ものですよ。
主郭から橋を渡って西側の郭群へ渡り、主郭方向へ振り返って撮影。各所にこういう橋がかけられています。この橋が無かったら、完全に迷路ですよ。
主郭西側の郭から北方向を撮影。
西側の郭は畑になっていたり、ここには養蜂場のようなミツバチを集める道具みたいな物が置かれています。
西側の端、西口のような土橋。
こっちは主郭から東側にある郭群のクリーク
城の南端と思われる濠。
城の南東の角付近。
東側濠を南から北へ。かなりの幅がありますね、越えるのは容易じゃありません。
城の北東角付近にある寺から観た濠。
城の東側から、西へ寺方向。
城の北西部分にある土塁跡らしき竹藪。
直鳥城は犬塚氏の居城として築かれました。航空写真がコチラ
犬塚氏は筑後蓮池氏の一族で、筑後の騒乱を逃れて一部が肥前に土着しました。ここでまず肥前犬塚氏と、筑後犬塚氏に別れます。また肥前犬塚氏も東犬塚氏と西犬塚氏に別れ、激しく対立します。原因は本家である東犬塚氏の家督を養子が継いだことに端を発し、本家当主の弟であった西犬塚が反発したものだと考えられています。
直鳥城は東西犬塚氏とはまた別の直鳥犬塚氏とよばれ、肥前犬塚氏は犬塚3家とよばれそれぞれに少弐の武将として仕えながら大友の庇護を受ける。つまり、主家を二股にかけていました。
この現象は戦国時代ではよくあった事です。力を失いつつある少弐氏に従いながら、もっとも大きな勢力の大友氏の庇護を受けて生き残りを図っていたんですね。
しかし、そこに龍造寺という新興勢力が力を伸ばしてきます。少弐氏を見限った犬塚3家は龍造寺隆信に従いながら、大友にも通じるという事をやるんです。そこへ大友宗麟の肥前侵攻、犬塚氏は大きな岐路に立たされます。
結果として、直鳥犬塚氏当主鎮家は大友に従い龍造寺隆信に肥前を追われ、大友方の西犬塚と龍造寺隆信に従う東犬塚はお互いに殺し合い。西犬塚氏嫡男を鍋島直茂が殺害、次男を龍造寺隆信が助けて同族3家の戦いは収束します。
後に肥前を追われた直鳥犬塚氏の当主であった犬塚鎮家は龍造寺隆信に請われて肥前に戻り、龍造寺家臣の中で特に武勇に優れた4人、両弾二島の一人として活躍します。
龍造寺隆信に命を助けられた東犬塚氏の次男も龍造寺隆信に従い、各地の戦いで活躍しました。
ここにも面白い戦国ドラマがありましたね、佐賀は本当に戦国時代の遺構が沢山のこっていて天然の博物館のようです。戦国時代が好きな人にはたまらない場所ですね。
参考:九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~【命運・・・二つの犬塚・肥前編3】
「直鳥城跡」直鳥クリーク公園
MAP:佐賀県神埼市千代田町直鳥535−1 Googleマップへ
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