與止日女神社(河上社)「龍造寺一族」vs「神代勝利」因縁の地!血で血を洗う激闘の舞台【佐賀戦国史】
土地に歴史あり。過去の出来事を知って訪れると、楽しさ100倍ですね。
「與止日女神社(河上神社)」は戦国時代に起きた大事件の舞台でした。
佐賀市大和町にある「與止日女神社」は、佐賀市から福岡へ向かう国道263号線沿いにある由緒ある神社です。この周辺では戦国時代に東肥前統一を目指す龍造寺隆信と、山岳地帯を支配した神代勝利との激戦が繰り広げられました。
三の鳥居(1608年造営)佐賀市重要文化財
また、戦国時代に肥前国を統一し戦国大名となった「龍造寺隆信」が世に出る切っ掛けとなった場所でもあります。室町時代後期から戦国時代にかけて東肥前には多くの国人領主が割拠し、さらに大内や大友といった外部勢力の干渉もあったため戦乱が続くカオスな時代でした。そんななか、肥前戦国史の転換点ともいえる大きな事件が起こります。1545年、少弐家家臣による謀略に嵌り、龍造寺隆信の父や兄弟などが神代勝利らの襲撃によりこの地で皆殺しにされました。
多くの一族を一度に失った結果、龍造寺家では出家させられていた隆信が還俗。その後、隆信は龍造寺家当主となり、肥前国を統一する事になります。
肥前戦国史において、大きく時代を動かした場所。凄惨な戦いが繰り広げられたとは思えない、静かで落ち着いた雰囲気の境内。
神社の創建は564年頃、祭神は「與止日女命」水の守り神とされ、一説には 神功皇后の妹と伝えられています。
境内には推定樹齢1400年の楠木があります、ちょうど創建の50年後くらいからこの場所にあるんですね。歴史の生き証人です。
1602年には後陽成天皇が「大日本国鎮西肥前州大一之鎮守宗廟河上山正一位淀姫大明神一宮」と書いた勅額を下し「肥前一宮」とされましたが、佐賀県みやき町にある千栗八幡宮も一宮とされていたため一宮を巡っての争いも起きました。
神社社殿を西側によった位置から撮影。
1570年、北部九州で最大の勢力を誇った大友宗麟が肥前侵攻を開始します。大友宗麟はキリシタン大名であったために、多くの神社仏閣を焼き払いました。
與止日女神社も焼き払われ、社殿を始め南大門など殆ど全ての建物が消失したそうです。現在に残る神社の建築物の中で一番古いのは、大友侵攻による戦災からの復興時に建てられた西門です。
かなり年季の入った西門、造営は1573年で県重要文化財。
神社の西側には実相院という寺院があります。この寺院も與止日女神社の境内地に含まれており、ここに建つ仁王門は東肥前の覇権を賭けた龍造寺隆信と神代勝利との決戦時に神代勝利が本陣を置いた場所と伝えられています。
神代勝利は東肥前北部山岳地帯を支配し、山内二十六山の総領と呼ばれた武将。450年ほど前、この地で甲冑に身を包んだ1200人の猛者たちが陣を構えていたんですよ!考えただけでも鼻血ものですよね。
境内の一角には、子宝の神様が祀られています。
「金精さん」と名付けられた男根の形に似た自然石は、與止日女命の子宝を叶えた言われから、触ると安産や子宝に恵まれるとされています。
福岡から佐賀に向かう際、三瀬峠を越えるので與止日女神社の対岸を通っているんです。何気ない場所でも過去の歴史を知ったうえで見てみると、全く違った視点から見る事が出来ます。これがまた楽しい!
という事で、ネットで色々と調べながら、よく見かける與止日女神社の紹介とはチョット違った内容で記事にしてみました。
戦国時代の肥前国は、佐賀の歴史のなかで最も輝いていた時代ではないでしょうか。
東肥前の覇権をめぐって群雄が割拠した時代、千葉、少弐、龍造寺、神代、馬場や小田など地域ごとにヒーローがいて、身近な場所で歴史ドラマが繰り広げられていた時代。
そして、九州戦国史のクライマックス。大友、島津、龍造寺、九州三国志の時代は佐賀が主役の一角だった時代です。
う~ん、やっぱ佐賀は面白いですね。
「與止日女神社(河上社)」
MAP:佐賀県佐賀市大和町大字川上1 Googleマップへ
與止日女神社公式サイト
最新情報をお届けします
Twitter で佐賀ポータルをフォローしよう!
Follow @SagaPortalCopyright © 佐賀ポータル All rights reserved.