佐賀肥前国の地方勢力のひとつだった龍造寺家を、北部九州の大半を治める大大名へと成長させた佐賀の英雄「龍造寺隆信」に所縁のある場所を尋ねるコーナー。今回は、龍造寺隆信が7歳で出家し17歳で還俗するまで、武士ではなく僧として育てられた場所「宝琳院」を紹介します。
宝琳院の場所は少し解りにくく、環状南通り佐大南交差点と、本庄袋町交差点のちょうど中間あたり、向いに丸亀製麺佐賀店があるガソリンスタンド脇から北へ入っていきます。
閑静な住宅地を北へ、ずっと直進し、道なりに左へ大きく曲がっていきます。
住宅街の通りを曲がり切ってすぐ、宝琳院があります。
宝琳院の境内は、静かで落ち着いた雰囲気。この地で龍造寺隆信公が少年期を過ごしていたんですね。同じ場所に立ち、過去の出来事に思いを馳せるのも歴史の楽しみ方です。
昭和八年に再建された本堂
境内には龍造寺家に使え、沖田畷で龍造寺隆信と共に戦死した執行家の墓所もあります。当寺は15世紀末ごろから江戸初期まで龍造寺一門が住職を務め、「恵日山龍造寺宝琳院」という寺でした。”龍造寺”は、現在の佐賀城周辺に実在した寺で、龍造寺家はその寺の地名から名をとって「龍造寺」と名乗ったそうですから、龍造寺を冠する宝琳院は相当に格式の高い寺であったのでしょう。
龍造寺氏から鍋島氏へと領主が変わり宝琳院は衰退し、1874年の暴風で受けた被害によって廃寺となりました。その後、昭和になってから再建され、現在の姿となっています。
残念ながら現在の宝琳院には龍造寺の頃の遺構などを見つける事は出来ませんでしたが、唯一、本堂の瓦にある龍造寺家の家紋十二日足(じゅうにひあし)紋が龍造寺家との繋がりを今に伝えています。佐賀の歴史の中で最も有名な偉人といえば、北部九州の大半を支配下に置き、島津氏、大友氏と共に覇を競った九州三国志の主役の一人である龍造寺隆信公でしょう。
しかし、今の佐賀市内で龍造寺隆信公の時代を知るための施設などは、ほとんどありません。もっと調査を進めて、戦国時代の歴史資料館などを作って欲しいですね。
佐賀の人々に忘れられつつある龍造寺隆信公の時代ですが、佐賀が歴史上もっとも輝いていた時代です。もっと脚光を浴び、発掘調査などによって当時の様子が明らかになって欲しいと願いつつ、少しずつ龍造寺隆信公と所縁のある地を訪ねて紹介していきたいと思います。
龍造寺隆信公所縁の地について、情報などがありましたら「問い合わせ・情報提供ページ」より情報を頂けましたら、可能な限り現地に赴いて紹介したいと思います。よろしくお願いいたします。
「恵日山 宝琳院」
MAP:佐賀県佐賀市鬼丸町12-30Googleマップへ
参考:九州四十九院薬師霊場公式サイト「恵日山 宝琳院」ページ
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