「水ヶ江城跡」初期の龍造寺隆信を支えた城と経済力。なぜ国人領主が大大名になれたのか?
戦国時代の九州で唯一ともいえる下剋上による巨大大名家、ちょっと過小評価されすぎです。
分家であった水ヶ江龍造寺家が主家を呑み込み、守護大名を凌駕し下剋上へと繋がった秘密に迫る。
北部九州の英雄として名高い龍造寺隆信。肥前佐賀郡(佐賀県佐賀市の一部)を支配する国人領主の更に分家である水ヶ江龍造寺家が本家を呑み込み、かつての主家である千葉氏を支配下に置き、さらに肥前守護であった少弐氏を倒し、当時の九州最大の大名であった大友氏を退けて巨大勢力になりました。
最も勢力が大きかったころには、南は長崎、北は福岡県西部、東は筑後地方など福岡県南部地域全域、さらには薩摩(鹿児島)の島津氏と現在の熊本県の支配を分け合うほどの巨大勢力でした。
しかし、それほどの大勢力を築いた龍造寺隆信は、もともと佐賀県佐賀市にある佐賀城の周辺を支配する地方のいち豪族の、更に分家の当主でしかありません。そんな末端の国人領主が、なぜ九州で最大ともいえる勢力を築くことが出来たのか。
その秘密は龍造寺隆信の最初の居城である「水ヶ江城」の立地にあったのではないではないか・・・ということで、水ヶ江城跡と水ヶ江龍造寺の経済基盤となったと思われる場所を見て回りながら、その強さの秘密に迫ってみたいと思います。
水ヶ江城の龍造寺家兼の隠居所があったとされる、東館跡の公園に建つ龍造寺隆信公の碑。
龍造寺隆信が生まれた水ヶ江龍造寺家とは、隆信の曾祖父である龍造寺家兼によって興された龍造寺家の分家です。龍造寺家兼は第13代当主龍造寺康家の5男。この龍造寺家兼が知勇に優れた猛将で、たちまち龍造寺本家の実権を握ると主家にあたる肥前守護少弐家の家中でも随一の力を持つようになります。
水ヶ江城は西館・中館・東館、小城(本館)、など5館の郭からなり、約30ha(300,000平方メートル)坪数にして9万坪、田んぼ900反(900枚)という広大な面積を誇る城でした。
水ヶ江城の主郭、本館にあったとされる寺院「乾亨院」。龍造寺家兼が建立し、その弟によって開山された臨済宗南禅派の寺。
乾亨院には明治初期、佐賀の士族が明治政府に反乱を起こした「佐賀の乱」において戦死した政府軍兵士の合葬碑があります。
水ヶ江城と時代は全く異なりますが、佐賀士族による反乱で戦死した政府軍兵士の墓碑と背中合わせに、反乱軍の指揮官「朝倉尚武」の墓が建っています。
話を水ヶ江龍造寺に戻します。
戦国初期の北部九州は周防(山口)を本拠とする大内氏と、豊後(大分)を本拠とする大友氏の2大勢力によって支配権が争われる激戦の舞台。九州北部の中心地である筑前(福岡)や肥前(佐賀)にはもともと少弐氏という守護大名が大きな勢力を持っていましたが、周防の大内氏の侵攻を受けて敗走を重ね、戦国時代には肥前一国まで追い詰められていました。
水ヶ江城中の館の郭内にあった「光円寺」。龍造寺家の重臣、木下氏の屋敷があった場所。
1530年大内氏が少弐氏を滅ぼすべく、肥前侵攻を開始します。これを迎え撃つため少弐資元は龍造寺家兼に出陣を命じ、同年8月15日、神埼市の田手川を挟んで家兼率いる少弐勢と侵攻してきた大内勢との決戦、田手畷の戦いが起こりました。
この戦いで龍造寺家兼は一門である鍋島勢の活躍などもあり、大内勢を打ち破る大きな武功をあげます。龍造寺の名は敵である大内家中でも知られるようになり、大内氏と接近し少弐氏を見限って独立した勢力への道を歩み始めます。
龍造寺家はもともと小城市を中心に勢力を誇った千葉氏に従う国人でした。北部九州を支配した少弐氏が大内氏の侵攻を受け撤退を重ね肥前に根を下ろすと、千葉氏と共に少弐氏の臣下となります。いわば、少弐家臣団の中では外様ともいえる立場にあり、さらに龍造寺家兼は分家の水ヶ江龍造寺の当主でした。
水ヶ江城東館と中の館との間にあった濠跡と思われるクリーク。水ヶ江城の中の館、西の館の大部分は現在学校の敷地になっています。
水ヶ江城内、西の館にあったと思われる寺院「円蔵院」この寺も龍造寺家兼によって建立されています。
円蔵院の北東角のクリーク、古い石積みが残っています。水ヶ江城の遺構だと嬉しいなぁ。
境内には龍造寺家の家紋「十二日足紋」が刻まれた塔がありました。
そんな数ある国人領主の一つである水ヶ江龍造寺家が大躍進できた背景には、河港を使った交易や港町による経済力があったと思われます。
特に飯盛城を居城とする石井氏が龍造寺家兼の臣下となったことは、水ヶ江龍造寺にとって一大転機になったのではないでしょうか。石井氏が龍造寺の臣下となってからは、飯盛城は水ヶ江城の出城的な役割を果したとされています。
飯盛城は沿岸部に近く、近くを流れる川「本庄江川」の今津、相応津という河港を押さえる要衝でした。この城と領主を臣下とする事で、水ヶ江龍造寺家はもともと支配下にあったと思われる水ヶ江城南東にある八田とあわせ、佐賀南部の経済の中心地ともいえる河口近くの河港を支配下に置くことになったのです。
中世における日本国内の物流は、陸運よりも多くの物資を速やかに運べる水運が中心でした。水運が陸運にとってかわられるのは、鉄道や自動車が普及する昭和に入ってからの事です。特に、川下を支配するという事は、物流の大動脈ともいえる川の出入り口を支配する事になり、川上地域の経済の首根っこを押さえるようなもの。つまり、水ヶ江龍造寺は本家や周辺の国人領主を、経済力で圧倒していたのではないかと推測できるのです。
水ヶ江城跡と龍造寺本家の村中城、水ヶ江城の出城で沿岸警備を担当した飯盛城、河港があった八田、今津、相応津の位置関係。
江戸時代も八田宿として河港を中心に繁栄した、水ヶ江城南東に隣接する八田。江戸時代は鍋島本家の直轄地でした。
江戸時代の番所跡、荷揚げ場の跡が残っているとの事ですが、どこにあるか分かりませんでした。
佐賀沿岸の警備と今津、相応津、両河港を支配する拠点となった飯盛城。
戦国時代の海岸線は現在よりも内陸に入っており、飯盛城は海の近くにありました。
佐賀市内を流れる本庄江川の河口付近にあったとされる、相応津の港町。
相応津は今でも現役の漁港です。川沿いには、昔使われていたと思われる石積みと階段がありました。
相応津から少し上流に遡ると、今津の街があります。
渡し場跡や船着き場あとがあり、かつての河港の面影を残した街並み。
佐賀独特の風景ですね、川岸がドロドロです。この川を、多くの船が行きかっていました。
本来なら、こういった河港からもたらされる利益は守護である少弐氏が得るはずのものですが、少弐氏が大内氏の侵攻を防ぐことに必死になっている戦国のどさくさに紛れて龍造寺家兼が実行支配していったのではないでしょうか。
その結果、力を付けすぎた龍造寺家兼は、少弐氏に従う国人衆によって謀反の疑いをかけられ族滅とも思えるような襲撃を受けます。家兼自身は筑後へ逃れることが出来ましたが、子供2人と孫4人を殺され龍造寺家は存続の危機を迎えます。
龍造寺一族襲撃の舞台となった川上社。
肥前の熊(隆信)はいつ出てくるの?と待ちわびていた人にはいよいよです。龍造寺家兼が肥前を追われ筑後に逃れる際、出家していた隆信を伴っています。そこで還俗し、龍造寺隆信の武将としての人生が始まりまりました。
それにしてもこの龍造寺家兼という人は超人的な爺さんで、90を過ぎて挙兵!龍造寺族滅作戦の首謀者である少弐家臣馬場頼周らを討ち取り見事復讐に成功。いやはや、凄まじい人です。
肥前佐賀へと舞い戻ったスーパー爺さん龍造寺家兼は水ヶ江龍造寺を隆信に相続させ、93歳でこの世を去ります。
龍造寺隆信は知勇兼備、外交に謀略、合戦にと大活躍。スーパー爺さん龍造寺家兼が「龍造寺を継ぐのは円月(隆信の僧としての名前)しかいない。」と言い切った大器は、その力を存分に発揮します。龍造寺隆信は水ヶ江龍造寺の家督を継ぎ、さらに本家である村中龍造寺の家督も相続、肥前統一に向けて勢力を拡大していきます。
龍造寺隆信公生誕の碑
本家を継いだ直後、少弐派ともいえる家臣に背かれ、筑後へ追いやられます。しかし隆信もただモノではありません、再び挙兵して佐賀を奪還。2度の大友宗麟による肥前侵攻を兵数において圧倒的に不利な状況から退け、肥前における主家少弐氏を含む反龍造寺勢力をことごとく撃破。さらにはお世話になった筑後柳川の蓮池氏が島津と二股にかけていると知ると、これを謀略にかけて占領。
そうして後に5州2島の太守と呼ばれるほどの大大名へと成長していきます。
龍造寺軍の特徴として挙げられるのは、鉄砲をはじめとした装備の充実。これは曾祖父である家兼が整えた、経済力の賜物であったと思われます。一説には鉄砲9000丁を有したと言われていますが、さすがにそれは言い過ぎかもしれません。ただ、相当数の鉄砲を所有し、運用していたようです。
佐賀市公式サイトから水ヶ江城の略図
龍造寺隆信という人に関する資料はかなり少ないようで、実際はどのような人物であったか良く分かっていません。一般に知られている隆信の逸話などは、主に鍋島体制になってから記されたもののようです。
よく龍造寺隆信の残虐性が取り上げられますが、実際には敵対しても降伏した相手は許すなど寛大な措置をとっています。他の大名のように、一族を殺すような事もありませんでした。ただ、裏切り行為に対して容赦なかったようで、龍造寺家臣でありながら敵に寝返ったり内通するなどした武将は懲罰的な対応を取られています。これは下剋上が当たり前の時代、ある意味しょうがない措置だったのでしょう。
地方の国人領主から成り上がり、北部九州随一の巨大勢力を一代で築き上げた佐賀の英雄龍造寺隆信。その背景には、肥前の中心部である佐賀の地に曾祖父が築き上げた地盤がありました。その中心がこの水ヶ江城だったんですね。
佐賀は本当にドラマが多く、さらに遺構が数多く残っているので面白いですよ。今後さらに調査が進み中世戦国時代の佐賀に触れる機会が増えるといいなぁと妄想しつつ、今後も戦国期の遺構を求めて取材を続けていきます。
「水ヶ江城跡」
MAP:佐賀県佐賀市中の館町周辺 Googleマップへ
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