兵どもが夢の跡、天満宮が建つ於保氏居城跡と田畑の中にポツンと建つ墓石群。
佐賀藩主となった佐賀の地方領主「鍋島氏」発祥の地から、嘉瀬川を渡った対岸にある於保氏の城館跡。川を挟んで目の前ともいえる距離に城館を構えて割拠するも、戦国時代の戦乱の中で両家の歩む道は全く違うものとなりました。
鍋島氏はご存知の通り、龍造寺氏に従い各地を転戦。龍造寺隆信の肥前統一から北部九州最大の勢力へ成長するなかで、重要な役割を果たしました。さらに隆信死後は龍造寺氏の後継として所領の維持に努め、主家から禅譲を受け佐賀鍋島藩主となります。一方の於保氏は少弐、龍造寺、大友と時代に合わせて時の有力者に従い、龍造寺隆信と敵対したことで没落、滅亡しました。
下の地図は於保城と鍋島城の位置関係。
肥前の歴史の中で於保氏の名前が出て来るのは1186年、文治二年。肥前国府の南側に勢力を持つ高木氏の分流で、高木氏は藤原氏の後裔とされていることから藤原姓。(武家家伝による)鍋島氏が肥前に来たのが1381~84年とされているので、その200年ほど前の事。
於保城跡に建つ於保天満宮、龍造寺隆信が於保氏を滅ぼしたのち館跡に建立したと伝わります。
西側から見ると天満宮の境内が一段高くなっているものの、城跡と思われるものは残っていないように見えます。
石段をのぼり境内へと入っていきます。
一の鳥居を過ぎて二つ目の鳥居、寛政元年(1789年)の銘があります。
境内に天満宮の解説が書かれた案内板がありました。
ネットで調べた於保氏の興りと少し違うようですね。私がよく参考にしている「武家家伝」というサイトによると、肥前高木氏の甘南備(比)城主高木宗貞の二男家綱の嫡子宗益が於保氏を名乗ったとあります。甘南備城は佐賀大和インターの北側にある城山、現在は甘南比神社があります。
現地の看板では京都内裏警備役であった藤原実遠が、後白河天皇の命によって北野天満宮の分神を於保の地に祭ったのが起源と書かれています。まあ、どちらが正しいのか、私は史実を研究する人間じゃないのでどっちでもいいんですけどね。そういうのは学者の先生に任せて、私はこうやって昔の人たちのエピソードを辿りながら現地を旅して「場所を楽しむ」のが好きなので。
於保天満宮の拝殿、飾らない素朴な外見です。集落の中にあるこういう神社って、味があって好きなんですよ。
狛犬は肥前狛犬ではなく精悍な顔つき。
まずはお参りを済ませます。拝殿から神殿が見えますね、天井にはたくさんの絵が描かれています。
拝殿前から鳥居、参道の方向を見てみました。周りは見事な田園風景。
境内には他の神様も祀られています。
そのまま神殿の裏に回って木々が生い茂る広場に出てみると、境内と道路の境目のところ、石組の上の部分。よく見ると土が盛り上がってるように見えるんです。これは土塁跡でしょうか。
道路に降りてみるとこんな感じです。現在の神社が城館の姿をどれくらい残しているのか不明ですが、主郭部をそのまま使っているのなら土塁が残っていてもおかしくないですよね。
横からみた於保天満宮、形はよくある小さな集落の神社なのですが、とても美しいんです。
城の痕跡を探して歩いていると、東側に水路を見つけました。場所的に堀跡だと面白いんですけど。
上の水路は、ちょうど天満宮の脇を通る道路から東を見て、畑の先、土塁の様に盛り上がった土の向こうにあるんです。
水路から見ると位置関係はこうなります。まさに堀と土塁じゃん!という光景なのですが、本当のところは全く分かりません。どちらにしても、当時の様子をイメージ出来ますよね。なので、これは堀と土塁。神社の社殿は館なのです。私はそう思ってみる事にしました。
だって、その方が面白いでしょ、中世の城館跡としてイメージしやすいですもん。旅は楽しんでなんぼ。史実の究明は学者に任せて、私は勝手に脳内変換して楽しめばいいのです。
この風景はほんとに見事ですよね、堀と土塁はセットですからとってもイメージしやすい画になってます。
さらに水路の脇にはお堂が建っていました。
お堂から真っ直ぐ西方向。
家を一軒過ぎて畑の先、右手北方向に於保天満宮。
ここから於保天満宮へ歩いて行くと、途中に神様が祀られていました。
鳥居の前まで行き、神社へ入らず左折。西方向へ歩いて行くと、於保氏の墓所があります。
この場所には於保氏がこの地に館を築いた際に菩提寺として建立した長禅寺がありました。
於保氏は南北朝から戦国の戦乱に巻き込まれていきます。1505年には横辺田(江北町小田)の戦いで於保馬太夫資宗が討死に。1534年には弼親が大内氏と龍造寺隆信の曾祖父龍造寺家兼との戦いで、龍造寺方で出陣し討死に。1543年には龍造寺隆信の祖父龍造寺家純に従って多久城攻めに参戦。龍造寺軍は敗退し、鎮宗が搦手の志久峠で討死に。なんと3代に渡って一門が相次いで戦死しています。このことにより於保氏は衰退、一時は館も亡くしてしまいます。しかし於保鎮宗の見事な戦いによる軍功として再興されます。
そして運命の時、大友宗麟による村中城包囲戦が始まります。於保氏は大友氏に従い軍の先鋒を務めますが、この戦いは今山への奇襲攻撃により大友軍が瓦解。龍造寺隆信の勝利となり、於保宗暢は奮戦虚しく討死に。於保氏はここに滅亡します。
しかし於保氏は断絶したわけではなく、八戸氏や龍造寺一門となったもの。また、鍋島家に仕えた者などがおり、佐賀藩士として於保の一族は続いて行きます。
こうやって実際に中世地方領主の館跡を訪ね、周辺の大勢力の間で生き残りをかけて戦い続けていた人たちへ思いを馳せる。川を挟んでスグお隣にやって来た鍋島氏は藩主になり、かたや於保氏は激戦を戦い抜き多くを失いながら歴史の中へ埋もれていく。
菩提寺を失い田畑の中にポツンと残るこの墓所は、まさに栄枯盛衰、諸行無常を象徴しているように思います。
佐賀ってこういう場所が数えきれないくらいあるので、本当に面白いですよね。次はどこへ行こうか、乞うご期待です。
「於保城跡(於保天満宮)」
MAP:佐賀市大和町於保⇒ Googleマップへ
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