さほど大きくなかったようですが、龍造寺隆信の大躍進に重要な役割を果した城です。
今津、相応津、二つの港を支配し、海岸警備にあたった水ヶ江城の出城。
飯盛城は規模は小さかったようですが、龍造寺氏が佐賀において力を持つに至る重要な役割を果した城です。戦国時代の海岸線は飯盛城の南、下飯盛あたりにあったとされています。さらに、北西1kmに今津という港、南西1kmに相応津という港の二つの港が領内に有り、海岸線に近い事から港を含めた沿岸部の警備を受け持った城でした。
築城は永享3(1431)年、少弐資嗣が築いたと言われています。その後、小城から千葉氏の配下であった石井氏が移り住んで居城とし、石井党と呼ばれる武士団を形成して龍造寺康家・家兼・隆信の三代に渡って重臣として仕えました。戦国時代の水ヶ江城(水ヶ江龍造寺氏居城)の出城として、港と沿岸部を管轄する重要な軍事拠点となります。
現在は石井氏の菩提寺「常照院」となっていて、寺の境内が主郭、南に向かって二つの郭がありました。現在の状況からも、その形跡が伺えます。
飯盛城は龍造寺隆信が筑後に追われた際、高木、八戸、神代といった少弐氏に従う国人衆に占拠されますが、龍造寺隆信が佐賀村中城を取り戻した際、石井党によって奪還されました。
戦国時代は主に水運によって物資が輸送されていたため、二つの港を利用した交易による収入と運上金(関税)、そこから派生した商都が生み出す利益は、多くの群雄が割拠する佐賀で龍造寺氏が大躍進するための兵站地として大きな役割を果したはずです。
実際に現地に行ってみると、城跡部がかなり残されていて独特の地形になっています。下の写真は飯盛城の北西角から東方向へ水濠を撮影したものです。
北側水濠の北東角から西へ
主郭部東側水濠、南から北へ
主郭部西側水濠、おそらく道路も堀跡だと思われます。
飯盛城内に建つ天満宮。
三の郭、城の南端部の水濠跡らしきクリーク
二の郭から主郭部
主郭部内部は寺院の境内となっていて、石井氏などの墓が建ち並んでいます。
寺院の裏は庭園のように整備されています。
城郭時代に使われていた古井戸があるとの情報から探して見ると、北東角近くにそれらしき井戸がありました。井戸は埋められていました。
主郭内部から東側水濠を北東角方向へ
この城は佐賀藩の藩祖「鍋島直茂公」の妻、彦鶴姫の実家としても有名で、戦国時代の武将としては珍しい恋愛結婚を成し遂げる舞台となりました。
彦鶴姫に恋をした直茂は、石井氏の城館に忍び込み互いに愛を育んでいったそうです。度々忍び込んでいたために城内で不審者が忍び込んでいるとの噂がながれ、警戒が厳重にされても忍び込むことを辞めなかったそうです。
やがて鍋島直茂は石井家の家臣に発見され、泥棒と間違われて追い立てられます。屋敷を飛び出し塀を超え、濠を飛び越えたところで抜刀した家臣に切りかかられ足の裏に傷を負いました。その傷は生涯消えなかったそうです。
しかし、この濠を飛び越えるって、どんな跳躍力なんでしょう。愛の力は偉大です。
そんなステキなエピソードがある飯盛城跡(現常照院)は、ひょっとしたら恋愛成就のパワースポットかもしれませんね。
「飯盛城跡」
MAP:佐賀県佐賀市本庄町大字鹿子1206−3 Googleマップへ
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