東肥前の覇権を巡って壮絶な戦いが繰り広げられた合戦場に行ってきました。
龍造寺隆信の仇敵「神代勝利」との最終決戦!激戦の地川上峡。
1561年9月13日、東肥前の平野部を支配者する龍造寺隆信と、隆信にとって親兄弟を殺された仇敵であり最大のライバル、山内(山岳部)を支配する神代勝利との決戦が行われました。
主家であった少弐家を滅ぼし勢力を拡大する龍造寺隆信は、現在の佐賀市と神埼市の平野部を支配するにいたり、東肥前統一にあと一歩まで迫りました。しかし、隆信の前に山内の覇者である神代勝利が立ちはだかります。
神代勝利は居場所を転々と変えながら、隆信に対してゲリラ戦を展開。平野部への侵攻は許さないものの、山内での戦闘で手痛い敗北を喫した隆信が業を煮やして勝利へ決戦状を送ります。「御辺に対し鬱憤は片時も止む事が無い。ここは両家の行く末を掛け一戦に及び、今月13日、山里の境たる河上へ出張られ勝敗を決しようではないか」と書かれた書状を受け取った勝利は、この申し出を受け、東肥前の覇権をかけた決戦が川上峡の南側一帯で起こりました。
※日程は神代勝利が指定したとの説もあり。
龍造寺隆信と神代勝利、因縁の地「與止日女神社」佐賀市大和町
佐賀市大和町の川上という場所は、平野部から山内へと入る入口に当たる場所です。山内で戦うことの不利を思い知らされた隆信は山内に入ってこないために平野部との境目を合戦上として指定し、あわよくば敵軍を山内へと引き込もうと考えていたのかもしれません。
この決戦に参加した兵力は山内勢(神代勝利)7,000余騎、龍造寺隆信8,000余騎。国人領主同士の戦いとしては、かなり大規模な兵力が動員された一大決戦となりました。
川上合戦布陣図 兵力は「九州戦国史~室町末期から江戸初期まで~」を参考にしています。
※注意!各陣の場所、兵力は現地を歩いた筆者の解釈で作っています、正確な位置は不明ですのでご理解のうえでご覧ください。
しつこいですが、上記の布陣図は筆者の勝手な解釈で作成しています。
元にしたのは「九州戦国史~室町末期から江戸初期まで~」というサイトで、記事中に記載されている山内勢の布陣は以下の通りです。
神代勝利は三瀬武家、三瀬安家、古河佐渡守、古河新四郎ら2000余騎
本陣:淀姫大明神の西の総門嫡男・神代長良~神代蕃元、神代豊後守、神代兵衛尉、福島勝高、福島利高、中島鑑連、千布家利ら3000余騎
位置:大手宮原口次男・神代種良~松瀬宗奕、松瀬能登守利宗、杠種満ら1300余騎
位置:淀姫大明神の前・南大門三男の神代周利~八戸宗暘を付け、西川伊予守らの他、千葉胤誠の家臣らを合わせて1500余騎
位置:川(おそらく嘉瀬川)の東・都渡岐口
この布陣に相対する形で龍造寺隆信は3手に軍を分けて布陣し、山内勢の主力である大手宮原口に対して西山田に本陣を置いたとなっています。
最大の激戦地!龍造寺本陣「西山田地区」
西山田という地名は残っていませんが、西山田地区とよばれる集落は現在も残っています。平地が続く場所ですが、地名を冠した「西山田農園」の近くに小高い丘がありました。周辺に目立つ高地がないため、ここに本陣が置かれていたら面白いなと思い撮影。というか、ここに布陣したことにしました!
西山田から川上峡方面へと進軍する龍造寺隆信本隊と、山内勢主力、勝利の嫡男「神代長良」率いる山内勢主力が激突。会戦は山内勢から仕掛け弓鉄砲による攻撃から、山内勢が龍造寺本体に突撃。龍造寺本隊は先陣を破られ勢いに押されて苦戦しますが、数に勝る龍造寺勢が突撃を受ける形でそのまま大乱戦に突入。「千騎が一騎になるまでの激戦」といわれた川上峡合戦最大の戦いがこの地で繰り広げられました。西山田から川上にある與止日女神社方向を撮影。
與止日女神社南大門前の激戦!
與止日女神社から真っ直ぐ南に延びる通り、かつての参道であったと思われる道路です。南大門は大友宗麟による攻撃で焼失してしまい、どこにあったのか調べても解りませんでした。
ただ、現地を歩いていると西山田、東山田方面からの主要道と佐賀市内から與止日女神社を通って富士町方面へと南北に延びるメインストリートが交差する上の写真あたりのような気がします。あくまでも、気がするだけです!が、ここを南大門にします。
與止日女神社から南に600m地点、南の総門だったとの事なので、おそらく街道に面した場所にあったのではないか・・・と思うんですけどね。上の写真は、神代勝利の本陣方向に向けて撮影しています。
ここは龍造寺勢が圧倒的に兵力が多く、門を背負って神代方の防戦が続いていたのではないでしょうか。主要道が交わるため、標識と地蔵や祠がポツンと祀られています。
合戦の趨勢を決定づけた!都渡岐口の陣
山内勢、神代勝利の三男の神代周利が布陣したのが「都渡岐口」と言われる場所。勝利本陣がある神社から嘉瀬川を渡って対岸、少し南に位置する場所。上の写真は、神社から都渡岐口方面を撮影。
実際に行ってみると、平地というよりも丘陵地となっています。川と山に挟まれて街道が狭くなっている場所を塞ぐ形で布陣していたのでしょうか、守るには適している地に見えます。しかし、東肥前の覇権をめぐる両雄の合戦の決着は、この都渡岐口が破られる事により決します。宮原口、南大門の各陣は一進一退の攻防を繰り広げ、予備兵力として神代勝利の本陣1200を残して山内勢は数に勝る龍造寺勢と互角以上に戦っていました。まだどちらに軍配が上がるのか全く予想がつかない中で、この都渡岐口で勝敗を決するような大事件が起きたのです。
都渡岐口で謀反!神代周利が討ちとられます。
将を失った軍勢は完全に瓦解、都渡岐口を破った龍造寺信周2千の兵は川を渡って南大門に殺到。南大門を守っていた神代種良も、自軍の三倍以上に膨れ上がった敵勢を支えきれず討ち死に。龍造寺勢は山内勢、宮の原口を包囲すると同時に神代勝利本陣の背後へ回り込む動きを始めます。
「都渡岐」という地名は残っていないので探して見たところ、上都渡城公民館という場所を発見。現在の龍登園の南側にありました。おそらく、このあたりだろうという場所をから佐賀方面を撮影。
因縁の対決、遂に決着!
二つの陣が落ち嫡男・長良だけが奮戦を続ける状況となり、神代勝利は陣を前に進めようとします。しかし、重臣らに止められて撤退を開始。いまだ決着のつかない宮原口に嫡男を残したまま、富士町の熊の川がある北西の山岳地帯へ逃れて行きます。上の写真は神代勝利の本陣が置かれていたと言われる、與止日女神社西側にある寺院「実相院」の仁王門。
撤退の祭に本陣の兵を一部割いて長良を支援させたことで、宮原口の戦線を何とか維持する事に成功します。しかし、多勢に無勢、殿といえば聞こえがいいですが実際には置き去りにされた長良も撤退を開始。龍造寺勢の追撃や落ち武者狩りによって多くの家臣を失いつつも、撤退に成功します。
この決戦により次男と三男を始めとした多くの武将を失った神代方の山内勢は完全に勢いを失い、防戦一方となります。神代勝利亡き後も長良が頑強に抵抗を続け、大友宗麟による肥前進行「今山の合戦」では大友方について龍造寺の本拠地「村中城攻め」に参加するなど度々龍造寺隆信を脅かしますが、1571年に龍造寺隆信と和睦、龍造寺家の家臣となりました。
討ち死にした神代勝利の次男・種良と、三男・周利が葬られた、與止日女神社対岸にある玉林寺。
川上峡といえば、現在でも観光地として人気のスポット。ですが、古くから開けた地には様々な歴史ドラマがあります。
そういった地域の歴史を知って今の景色を見ると、また違った風景に見えてきます。佐賀の戦国時代は本当に様々な出来事が各地で起きていて、その出来事を現在に伝える遺構がたくさん残っています。
やっぱり佐賀が一番輝いていたのは、戦国時代ですよね。まだまだ行きたい遺構がたくさん残っていますので、これからもアチコチ訪ね歩いて紹介します!乞うご期待。
「龍造寺隆信vs神代勝利 川上峡の合戦」
参考にさせて頂いたサイト
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