「佐賀城」城門に弾痕、戦いの跡を生々しく今に伝える城。復元された巨大な御殿は歴史館になっています。
地方領主から頭角を現し、九州で唯一、下剋上によって大名となった龍造寺隆信。その勢いは凄まじく、佐賀城周辺を治める地方領主から福岡県のほぼ全域、長崎、熊本の半分ほどまでを支配下におさめる巨大勢力となりました。佐賀城は、その龍造寺氏の本拠地であり居城とした「村中城」を改修、拡張して築かれた城。現在は佐賀城の本丸が残り、当時の姿を今に伝えています。
写真は佐賀城に現存する唯一の建物「鯱の門」と続櫓。1838年に完成した本丸の表門。
門に近寄ってみると、巨大な門扉に残る戦いの跡。1874年、佐賀の乱で落城した際に受けた弾痕が数多く残っています。
当時の戦いの様子が書かれたブログがあったので一部抜粋してみました。
鯱の門の北東、城壁に来ると、「ここ、ここ。 吾が輩等は、ここをよじ登ろうと、登りかけたが、上から鎮台兵が釣瓶落としに鉄砲撃ったので、ばたばた倒れじゃったたい」
と仰せられたので、
「さようなムチャクチャな攻め方をなさるならば、撃たれるのは当然ではございませんか」と申したところ、
古賀さんは、「しかし、おまえ、城攻めの絵草紙には、城壁によじ登る所を書いてあるじゃないか」と。
えっ!。 なんだ!。 戦争を絵草紙の絵見てやっていたのか!。 と思ったが、そこは、長幼の序あり、拙者、恐れ入ったる格好で「ははっ。 さようでござりますか。」
江戸時代という長い平和な時代が続き戦いを忘れていたのか、攻城戦を知らない兵士が多かった事がうかがえます。
鯱の門の北東といえば、ちょうど駐車場の正面あたりでしょうか。佐賀城本丸の北側に立つ鍋島直正公の銅像、ちょうどこの向こう側にみえる石垣あたりを登ろうとしたときの様子を語っているのでしょう。
佐賀の乱は、明治維新後に日本が体験した初めての内戦。佐賀軍による佐賀城攻撃から戦闘が始まりました。当時、佐賀城を守っていた政府軍は熊本鎮台第十一大隊の半分、約330名。佐賀軍の兵数は不明。佐賀軍は城の四方を包囲して砲撃を開始。城に籠る政府軍には大砲が無く、防ぎきれずに撤退を決定。佐賀城からなんとか脱出しますが、佐賀軍の追撃を受け久留米府中まで撤退した時には160名の戦死者を出していました。
そんな激しい戦いの跡が、そのままに残っているんですね。
入り口からいきなり見どころ満載、これは期待できます。それでは、歴史が刻み込まれた門を抜けて本丸内へ。内側から門を見上げると、やっぱでけぇなぁ。
両側の石垣と巨大な門、重厚な造りと歴史を重ねた本物が持つ迫力、さすが戦うための施設です。
門を抜けると広々とした空間が広がり、その中にドーンと建つ巨大な御殿。佐賀城本丸歴史館と名付けられた、本丸御殿の一部を復元した建物です。一部とはいえとても大きく、日本最大級の木造建築。
本丸御殿は佐賀の乱でも破壊されずに残り、裁判所や学校の校舎として利用され大正時代に解体されました。御殿の一部、御座間は他に移築されていたので元の場所に戻し、解体された部材は一部が佐賀市赤松町にある龍泰寺の本堂などに使われています。
佐賀市内で見かけるアームストロング砲、幕末期に佐賀藩がイギリスから輸入した当時は最新式の大砲でした。佐賀藩で製造されていたという説もありますが、実際には日本の技術力はそこまで達しておらず、同等の性能を持った大砲が作られていた可能性は低いとされています。
復元された御殿の中に入ると、まず驚くのが長い廊下。
四間続きの広間。外御所院といい、佐賀藩の公式行事が行われた場所。
順路を歩いて行き、最初の展示室。佐賀城の模型や絵図などが展示されています。
佐賀城本丸御殿の模型がありました。建物の模型は復元された、この本丸歴史館。復元されていない箇所は、図面になっています。こうやって見ると半分も復元してないんですね、それなのにこの巨大さ。
藩の政治を支えた政庁と藩主の居宅を兼ね備えた御殿、佐賀藩における権威の象徴。佐賀藩の力の片鱗を見ました。
佐賀城を記した絵図。北、西、南の堀は、ほぼ絵図通りの姿で現存しているので、堀端を歩けば城の大きさを体感することが出来ます。
廊下にも様々な展示、幕末期の物が中心です。
更に順路を進んでいくと、御座間がありました。この場所は藩主の居室。他に移築されていたものを、元の場所に戻したので使われている部材は江戸時代のもの。
他の新しい部分と比べると、柱などの色が明らかに違います。
古い建物が持つ重厚で落ち着いた雰囲気。
外を見てみると、高い土塁に囲まれ隅に櫓台。土塁を越えると、その先は堀があります。
建物の外、かつて御殿の一部だった場所には縁石があります。これを見れば、御殿の巨大さがよくわかりますね。
藩主の居室を出て、順路を更に進んでいくと幕末の佐賀藩を紹介した展示室がありました。
佐賀海軍の基地、三重津海軍所の絵が飾られていました。このほかにも、西洋の優れた技術を貪欲に取り入れようとした様々な取り組みが紹介されています。
幕末の佐賀藩を紹介した展示室を抜けると、本丸御殿の玄関に戻ってきました。
玄関の奥には売店があり、書籍などが売られています。
復元された本丸御殿「佐賀城本丸歴史館」、ここに掲載したものが全てではありません。撮影禁止となっていた特別展示室などもありますので、気になる方は是非!ご自身の目で確かめに行ってください。
一通り本丸の見学を終え、鯱の門をくぐって外へ出ます。
目の前に広がる白い砂利が敷かれている場所は、かつて堀だった場所。堀の内側に、石垣が続いています。この堀と石垣に挟まれた狭い通路を歩いて行くと
その先に、見事な虎口を発見。虎口とは敵の侵入を防ぐための構造で、通路を複雑にして通る敵を複数個所から攻撃できるようにした防御設備。
佐賀城の虎口は、直角カーブの連続になっています。ここは天守閣への入り口。
天守台の上から見るとほら、鍵状に作られた通路。入り口から直角カーブ、更に直角、最後は急激に狭くなった階段。もたついていたら周りから集中砲火を浴びます。これは・・・何も考えずに攻め込んだら討ち死にできますね。
虎口となっている入り口から、階段を使って石垣の上にきました。この場所には天守から続く櫓があったと思われます。先にはさらに階段があり、上ると天守閣です。
ここが天守台、けっこう広いですよ。
あまり知られていませんが、佐賀城には5層の立派な天守閣がありました。
天守台から本丸を見ると、本丸御殿を上から攻撃できる絶好のポジション。本丸内から天守台にへ行く通路が無いため、もしここを敵に占拠されたらどうするつもりだったのでしょう。
まあ、ここまで攻め込まれた時点で落城は確定でしょうけど。
この天守台、少し離れたところから見ると存在感抜群なんです。佐賀城の中で、この天守台が一番好きな場所。佐賀城へ行くことがあったら、ぜひ訪れてみてください。戦う城らしい武骨な造りですが、城が持つ本来の目的が良く伝わってくる場所です。
そういえば、いつの間にかお城の前に「鍋島直正」公の銅像が立っていますね。周りも綺麗に整備されて、公園らしくなってきました。
ただ、戦国好きの私としては、鍋島直茂像じゃないのが残念。そもそも、この城を築城したのは鍋島直茂。完成はその次の藩主鍋島勝茂の時代。その前に、龍造寺隆信が居なければ佐賀の支配などできていないのですから、佐賀藩は存在しません。龍造寺隆信が一地方の小勢力から、戦いを重ねて肥前国全域を支配する戦国大名となった。しかし、九州南部を制し、九州全土を支配しようとする島津に破れ討ち死に。そのまま島津軍に佐賀城まで攻め込まれるものの、見事にその危機を脱し、さらに豊臣秀吉による九州仕置きでも佐賀を守り、難しい状況の中で隆信が残した領地を最後まで守り切った鍋島直茂。そう、龍造寺隆信と鍋島直茂、この二人あってこその佐賀鍋島藩。佐賀の鍋島と言えば、全国的な知名度でも圧倒的に鍋島直茂でしょう。
やはりここは、手に持った軍配で前を指し示し「進め!」とか言ってそうな、甲冑姿の鍋島直茂像が立っていて欲しかった。私の個人的な願望ですけどね。
まあ余計な話は置いといて、佐賀市に残る佐賀城跡、いかがだったでしょうか。さすがに全てを掲載することは出来ませんが、佐賀城の注目スポットを一通り写真で紹介してみました。
ちなみに、この記事は2015年5月に書いた記事を、2017年5月にリライトしたものです。最初に訪れたときから、何度か訪れて撮りためた写真を追加し内容を大幅にボリュームアップ。なかなか見応えのあるお城なので、多くの人に訪れてもらいたいですね。この記事がその切っ掛けになれば・・・嬉しいなぁ。
佐賀城跡と佐賀城本丸歴史館
開館時間(佐賀城本丸歴史館):9:30から18:00
休館日:年末(12月29日から12月31日)
※記事の内容と現状が変わっていることがあります、詳しくは公式ページなどから直接お問い合わせください。
佐賀城本丸歴史館公式サイト⇒http://saga-museum.jp/sagajou/
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