佐賀に残る城跡といえば佐賀城が有名ですが、中世戦国の頃には大小様々な城が存在していました。今回紹介する「八戸(やえ)城跡」もそんな城の一つ。築かれた年代は不詳ですが、ここから北へ3kmほど行った地にある於保城を治めた於保氏から別れ、八戸と名乗った一族が治めた城です。
かつては三重の城濠に囲まれた城だったそうですが、今ではその遺構は殆ど残っておらず、1521に城内に建てられたという”龍雲寺”と堀の名残りのようなクリーク(水路)が残るのみです。写真はクリークにかかる橋を渡って、その奥にある龍雲寺。
地図を見ると、正方形にクリークが城跡を囲むようにはしっています。クリークの形が、なんとなく城濠っぽくないですか?
八戸城後の東側にかかる橋から撮影したクリーク、かつて堀になっていたような形で寺を囲んでいます。なんとなく、城跡っぽいですね。
龍造寺隆信の時代、八戸城を治めたのは八戸氏最盛期の当主”八戸宗暘”です。宗暘は龍造寺隆信の姉を妻としていて、龍造寺隆信の親戚に当たる人物です。しかし、八戸宗晹は龍造寺家に従っていたものの、神代氏や大友氏とともに反龍造寺の動きをしたために、1558年元旦に龍造寺隆信の攻撃を受け落城、城は廃棄されました。八戸宗暘は神代氏を頼って山内(佐賀市北方の山間地域、三瀬方面)へ落ちのび、大友氏の肥前進行時には再び反龍造寺の兵を挙げ、最後は合戦で負った傷がもとでなくなりました。
八戸宗暘の子供は命を助けられ、山本姓を名乗り山本宗春となりました。この山本氏が後に「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」で有名な、山本常朝へと繋がっていきます。そのため、八戸城跡に建つ龍雲寺には山本常朝と墓と、葉隠の碑が立っています。
葉隠の碑
山本常朝の墓
龍雲寺境内
八戸城跡の南側、旧長崎街道
数百年の昔、佐賀村中城を発した龍造寺軍は、ここから攻め込んだのでしょうか。当時の詳しい記録がないために解りませんが、今は何の変哲もない田舎の風景が戦場となっていた歴史があるんですね。
八戸城跡(龍雲寺)
MAP:佐賀市八戸1丁目6Googleマップへ
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