「境原」明治7年に発生した旧武士階級による反乱「佐賀の乱」最後の戦場となった場所。
明治7年2月15日、旧佐賀藩士による佐賀城攻撃から始まった佐賀の乱。直ちに討伐の軍が起こされ、政府軍主力は現在の鳥栖市から長崎街道沿いに西方向、佐賀へと進軍を開始。対する佐賀軍は朝日山、寒水川、田手川など各地で敗戦を重ね敗色濃厚。
さらに、佐賀軍を構成する2大勢力「征韓党」と「憂国党」のうち、征韓党は田手川の戦いで大敗を喫し党首「江藤新平」が鹿児島へと逃亡。征韓党は瓦解します。
追い詰められた憂国党は、迫りくる政府軍を迎え撃つために長崎街道の境原宿にある若宮神社に本陣を置きました。
※若宮神社に本陣=江藤新平と明治維新下巻(e-Bookland)
追い詰められた佐賀軍が、最後に拠点とした境原宿に今も残る若宮神社。神埼市の重要文化財に登録されている見事な肥前鳥居があります。
境原の指揮官だった副島義高をはじめ、憂国党の兵士たちもおそらく通ったであろう神社の参道。
江戸時代に造られたと思われる太鼓橋。今はただ静かに神社に訪れる人たちを迎えます。
重厚な神門をくぐると拝殿があります。敗色濃厚、敗戦後の先が見えない佐賀軍兵士。古の神の前に立ち、決戦の前に何を思ったのでしょう。
拝殿の前には砲弾を使った碑が建ち、その奥に肥前狛犬がありました。
デフォルメされた「ゆるキャラ」のような狛犬。ここで兵士たちの戦いを見つめていたのでしょう。
拝殿の中には正一位若宮社と書かれていました。文禄元年に豊臣秀吉が神馬を奉納し、同三年には後陽成天皇より正一位を授けられました。正一位は神社における最高位の神階。
後陽成天皇は豊臣政権絶頂期から、秀吉死後、関ヶ原の戦いがあった時代の天皇。
若宮神社本殿。
神饌殿(しんせんでん)お供え物などを作るところ。
このほかにも、境内には稲荷神社などの境内社があります。
神門から三つの鳥居越しに、境原宿の方向を撮影。
神門を出て真っ直ぐ正一位橋を渡り、長崎街道に出てきました。ここが境原宿です。
激戦で街並みはほぼ壊滅、大正・昭和初期の街並みすら残っていないのは少し寂しいですね。
長崎街道から若宮社の方向を撮影、ここには古い街の面影が残っています。
こんなところに恵比寿像がありました。
ポツンと建っていた境原宿の石柱と案内板。
境原宿の説明が書かれていました。佐賀の乱の記述は僅か二行。長い宿場の歴史の中では、ほんのひと時の事だったのかもしれません。しかし当時の人たちは大変だったでしょうね、自分たちを守ってくれるはずの藩兵が反乱を起こして政府軍と対峙するんです。どんな思いで街が焼けていくのを見ていたのでしょう。
境原宿、東の入り口付近に建つ「浄覚寺」
浄覚寺本堂。戦いのさなか、この寺はどのような役割を果たしていたのかが気になります。
境原宿の長崎街道は、現在国道264号線になっています。
佐賀の乱で焼けたということですが、戦いがどこで行われたのか。詳しい様子をうかがい知ることが出来ません。宿場内で戦闘が行われたのであれば、敵が侵入してくる入り口にあたる浄覚寺や、まさにこの場所で戦闘が起きていたのでしょう。
東から西へ、佐賀軍を撃破しながら進む政府軍。敗走を重ねる佐賀軍の主力が集結した境原に対して、政府軍はすぐ隣の姉村へ大阪鎮台第十大隊総員630名および、東京鎮台第三砲隊総員144名(野戦砲中隊規模)が進出。右翼部隊は神埼市の北部、城原から川久保方面へ。左翼部隊は熊本鎮台第十一大隊総員647名、佐賀城を守る最終防衛ラインともいえる蓮池へ向けて進軍します。
※図は国土地理院の地図に、私が推測で書きこんだイメージ図です。正確なものではありません。
1874年2月23日に行われた田手川の戦いの後、休息をとった政府軍は2月27日に総攻撃を開始します。
クリークと呼ばれる水路が張り巡らされた佐賀独特の地形、橋をことごとく破壊されていたためにクリークや川を渡りながらの戦闘で苦戦する政府軍本隊。地理に苦しめながらも装備に勝る政府軍は砲兵の支援を受けながら攻撃、更に左翼の十一大隊が蓮池攻略から引き返し佐賀軍の背後を突いたことで佐賀軍は敗走。境原は陥落しました。
境原宿付近を流れる川。この川を挟んで激しい戦闘が行われたのでしょう。
破れた佐賀軍は夜襲を敢行するも、政府軍本隊と左翼軍による二方向からの攻撃を受け敗北。この敗北を受けて憂国党の党首島義勇は鹿児島へ逃走。佐賀の乱首謀者二人は逃亡し、佐賀軍による組織的な戦闘は境原が最後となりました。この後、佐賀城は政府軍に奪還され、佐賀の乱は鎮圧されます。
鳥栖朝日山から西へ主な戦場跡を歩いてきました。敗走に次ぐ敗走、追い詰められた状況の中で兵士たちは境原で何を思い、決戦に挑んだのか。頼みの征韓党は田手川で大敗、ともに立ち上がった憂国党を見捨てて党首が鹿児島へ逃走。残された憂国党の党首「島義勇」は、佐賀城にとどまり最後まで戦って討ち死にするつもりだったそうです。しかし、結果として逃走することになりました。
後に首謀者二人は捕縛され、梟首の刑に処されます。梟首とは打ち首獄門、いわゆる晒し首という刑です。
明治という新しい時代にもかかわらず、江戸時代の梟首という刑に処された二人。新しい時代の流れに乗りきれなかった者たちの悲しい末路。多くの元藩士や一般市民を巻き込みながら、彼らは一体、何のために戦ったのでしょう。戦いの先に、いったい何を見ていたのか・・・今ではうかがい知ることが出来ません。
MAP:佐賀県神埼市千代田町境原原の町852−1(若宮神社)⇒ Googleマップへ
佐賀の乱、最後の激戦地「境原宿」。
戦闘は一昼夜おこなわれ、陸軍による報告書「佐賀征討戦記」には今役中第一の激戦と記される激しい戦いの舞台。明治の時代、この地で未来を切り開こうと必死で戦った人たちが居た。同じ地に立ち、同じ景色を見渡してみる。
そこにあったのは、どこにでもある田舎の風景でした。
「境原宿」
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