「佐賀の乱」政府軍対佐賀反乱軍、熊本鎮台第十一大隊と対峙した憂国党の戦い。
佐賀の反政府勢力による佐賀城攻撃から始まった佐賀の乱。初戦で佐賀城に籠り、反乱軍の総攻撃を受けたのが熊本鎮台第十一大隊です。この大隊は総員648名、政府からの鎮圧命令を受け陸路と海路に分かれて佐賀城に向かい、1874年2月14日陸路から先行した半大隊332名が県令(現在の県知事)とともに佐賀城へ入城。このことに反発した佐賀の反政府勢力は同年2月16日佐賀城を攻撃、政府軍が久留米に撤退するまでの2日間の戦闘で137名の戦死者を出しました。
今も佐賀城に建つ鯱の門にのこる弾痕。
政府軍は初戦で撤退したものの、大阪鎮台、東京鎮台、広島鎮台、旧福岡藩士を中心とした貴族隊などを動員して本格的な鎮圧に乗り出します。
鎮圧部隊は大阪鎮台の歩兵大隊と東京鎮台の砲兵隊が本隊となり現在の鳥栖市朝日山に集結した佐賀征韓党による反乱軍を攻撃、熊本鎮台第十一大隊は南から筑後川を渡り反乱軍のもう一方の主力である憂国党軍と対峙します。
1874年2月22日、政府軍本隊は旧長崎街道に沿って進軍を開始。朝日山を陥落させ、佐賀城を目指し西へと侵攻していきます。その動きにあわせて第十一大隊も筑後川を渡り現在の三養基郡みやき町豆津に上陸、戦闘を開始します。
筑後川は大規模な河川改修により流れを変えていますが、豆津はほぼ昔と同じ場所にあると思われます。
戦場となった豆津、当時の地名は今も残っています。
豆津の街並み、田畑と住宅地が広がっています。佐賀の乱当時も、広大な田畑の中に集落が点在するような場所だったのでしょう。
政府軍は福岡県久留米市から佐賀に向け、東から西へと侵攻してきました。当時の筑後川は現在の姿と異なり、大きく右へ左へと蛇行していました。
そのため水害が多発し、この辺りには大きな堤が各所に築かれていました。豆津橋から少し西へ行くと、現在も堤の一部が残されています。相当に堅固な構造となっていて高さもあるため、反乱軍はこれらの堤を土塁として活用し迎撃したのでしょう。
現存する千栗堤にあった江戸時代の筑後川図。蛇行する筑後川と、川に沿って作られた堤の様子がよくわかります。
見渡す限り高地らしい場所はほとんどないのですが、少し北に千栗八幡宮の小山が見えます。中世には、近くに千栗城も築かれていたという肥前国境防衛の拠点でした。
千栗は近辺の反乱軍勢力を排除したのち、熊本鎮台第十一大隊が宿営した場所。ここは見晴らしがよく、筑後川沿い一帯が一望できるため、初戦において反乱軍側も監視所を設けていたのでないでしょうか。堤があったのなら、相手の動きが見えません。
敵情を見るためには高所に斥候を配置する必要があったはずです。
千栗八幡宮から豆津方面をみると、久留米方面まで一望できます。
この地での戦闘は、大きな損害もなく政府軍が豆津への渡河上陸に成功しています。佐賀の乱における反乱軍側の兵力はよくわかっていないのですが、佐賀城攻防戦で1中隊相当の人員を失っている500名強の部隊に突破されたことになります。それも、渡河してくる敵を待ち伏せて攻撃するという圧倒的に有利な状況で、です。この地に配置されていた兵力は、かなり少なかったのではないでしょうか。
豆津を突破した政府軍はそのまま西進し、江見で再び反乱軍と戦います。
江見は現在の三養基郡みやき町、みやき町三根庁舎周辺にあたります。
江見の街並み、昔の道の姿が残っています。ここには城下町などでみられる、ノコギリ歯状のギザギザに建物が配置された場所がありました。
思わず見とれてしまったモダンな建物。
近くにあった「西乃宮八幡宮」、とても神秘的な神社です。この神社の少し南には、戦国時代に龍造寺隆信によって落城した横岳氏の居城「西島城」がありました。
こちらは江見八幡神社、1611年建立の肥前鳥居が有名な神社です。
社殿はあの「龍造寺隆信」が再建した記録があるそうです。龍造寺隆信が横岳氏の西島城を攻める際、この地で戦勝を祈願したのではないかとのこと。佐賀の乱においても、ここへお参りしたのでしょうか。
大通りから路地へ入り、左に曲がると正面に立派なお寺。そこから右へ、道路が直角に曲がった鍵状になっています。ノコギリ歯型の街並みといい、かぎ状に直角に曲がった通りと言い、寺社が多い事と言い、この地は肥前佐賀藩時代に東からの侵攻に備えた防衛拠点の一つだったのではないかと思えてきます。
このお寺の門、中に鐘があってメチャメチャ立派です。このあたり一帯は、古い町並みが残っていてとてもいいところですね。
そして、東にある豆津から江見に入るには、途中に川があります。
川を挟んで防御力に優れる鍵状やノコギリ歯型の街並み、寺があるという事は兵が駐屯する場所があるという事。佐賀の反乱軍は、佐賀藩時代の防衛施設を利用して戦っていたと思われます。
豆津に上陸を果たした政府軍は、江見で反乱軍の抵抗を受けるも侵攻の手を緩めずさらに西へ。
そして続く六田で痛烈な反撃を受けることとなります。
ここにも川がありました。佐賀は川が多く、天然の堀のような役割をしているようです。
六田の街並み、水田と小高い小山があります。
ここにも古い建物、レトロな感じがたまりません。
狭く湾曲した道。ゆるやかにS字を書くように続く道は、先の見通しが効きません。
政府軍は木々の間や、見通しの悪い場所からの奇襲攻撃を受け大きな損害を出したそうです。この道を見ると、なるほど納得です。
この地に侵攻した政府軍はこの六田の地で反乱軍の激しい反撃にあい、久留米市の住吉(現在の久留米市安武)まで撤退します。
対する佐賀の反乱軍ですが、東から西へ現在の国道264号線沿いに引いていき、この六田で総反撃し撃退しています。本隊との合流を目指す政府軍部隊に対し、合流を遅らせるために撤退しながら遅滞戦闘を行ったのか、初めから縦深的に陣を配置して六田まで敵を引き込んでの漸減撃退作戦だったのか、かなり気になるところですね。
ここから北の方角にある長崎街道を佐賀へと進行する政府軍本隊との合流を目指した熊本鎮台第十一大隊でしたが、この日は反乱軍に敗れ、かないませんでした。その後、夜間再渡河し千栗で宿営し、翌日に本隊へ援軍を出しています。
一方、政府軍本隊約1200を迎え撃った朝日山の反乱軍は敗退し、翌日、寒水川にて再度戦闘が行われ、その戦闘も政府軍の勝利に終わります。
反乱はこの後、首謀者の一人である江藤新平が自ら前線に出て戦う「田手川の戦い」へと続いていきます。
さて、佐賀の乱の戦場跡を巡っていてふと思ったのですが、佐賀の乱とは一体何のための戦いだったのでしょう。疑問は尽きないのですが、とりあえずそういった事は学者の先生方にお任せするしかありませんね。一通り戦場跡を見ながら調べていくと、私なりの見解が生まれるかもしれません。それが何なのか、考えながら次の戦場跡へ向かっていくことにします。
「佐賀の乱豆津・江見・六田の戦い」
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