佐賀に縁のない人からすると、佐賀の歴史として一番に連想されるのは肥前の熊「龍造寺隆信」ですよね。これは絶対ですよ、島津、大友、龍造寺の九州三国志の龍造寺隆信を知っている人は沢山います。ということで、中世期の肥前佐賀最大にして最後のヒーロー「龍造寺隆信」ゆかりの地を探して写真とともに紹介していく新コーナーを始めちゃいますよ!今回は第一弾!龍造寺隆信生誕地へ行ってきました。
龍造寺家といえば、肥前でも有力な地侍で小城市を地盤としていた千葉市に従う豪族でした。そんな中で、隆信は分家の水ヶ江龍造寺家の生まれなので、生誕地は佐賀城の南側にある水ヶ江城跡にあります。
今は城の痕跡すら見当たりませんが、分家の水ヶ江龍造寺家の居城は現在の佐賀城本丸跡から南方向にあったようです。本家の城は村中城(現佐賀城跡)戦国時代の佐賀城の本丸は北西部の北御門跡周辺、現在の県庁舎あたりにあったのではないかと推測されています。かなり近いですが、もとは隠居所として館のような感じだったのでしょうか。
現在は、デッカイ石碑が残るだけの場所、自治会館と公園があります。水ヶ江城は13代当主である龍造寺康家が隠居城として利用し、本家5男で隆信の曽祖父である龍造寺家兼に引き継がれ水ヶ江龍造寺家が成立します。家兼の時代には西館・中館・東館など周囲に堀を巡らせた五館の曲輪群を構える城でした。
ちょうど佐賀城南堀の南側一帯が”中の館”という地名になっていて、この辺り一帯が水ヶ江城の中の館だったのだろうと思われます。龍造寺隆信生誕の碑もこの地区に有り、曲輪の中に創建されたという寺が乾亨院と光円寺です。乾亨院には、明治時代に起こった佐賀の乱で戦死した熊本鎮台第十一大隊の兵士を祀った官軍墓地もあります。
乾亨院
官軍墓地
光円寺
このお寺は龍造寺隆信の家臣、木下伊勢守入道覚順の次男が開創したお寺。中の館前、木下伊勢守の屋敷の一部に道場を建てたのが始まりだそうです。
少しでも城跡を思わせるような遺構が無いかと歩き回ってみましたが、それらしい遺構は見当たらず閑静な住宅街になっています。
佐賀市中の館自治会館
佐賀市内の特徴としてクリークと呼ばれる水路が縦横に流れているのですが、堀割っぽい場所も見当たりません。しかし、肥前の有力な勢力に従う地侍が、この地から佐賀のみならず現在の福岡県、長崎県、熊本県の北部を領する大大名へと駆け上っていくのです。
最新情報をお届けします
Twitter で佐賀ポータルをフォローしよう!
Follow @SagaPortalCopyright © 佐賀ポータル All rights reserved.