佐賀特有の環濠集落型平城跡、龍造寺隆信の本陣になった事で有名。
「肥前姉川城跡」龍造寺隆信の勢福寺城攻め本陣にもなった環濠集落の平城。
姉川城は1360年、肥後(熊本)の菊池氏の一族「菊池武安」によって建てられたとされています。菊池武安は神埼市の仁比山城を本城とし、姉川城はその支城として建てられました。
後に少弐頼尚によって仁比山城を攻略されて姉川城に入り、姉川氏を名乗って少弐氏の家臣に組み込まれます。1551年、姉川惟安は少弐氏方として土橋栄益に従って龍造寺の本城「村中城(佐賀城)」を奪いますが、1553年に龍造寺隆信に奪還されてから龍造寺氏に従います。
姉川城跡全景写真(国土地理院ウェブサイトより)
佐賀独特の構造である環濠集落型の平城で、このあたりでは一般的な構造ですが全国的には非常に貴重な珍しい城です。近くには横武クリーク公園となっている横武城跡などがあり、姉川城は国指定の史跡となっています。
東側堀の北端、対岸が姉川城。
中は迷路のようになっており、航空写真では単純な構造に見えますが実際に入り込むと迷路の様です。堀が縦横に走り、曲輪が点在しています。
曲輪を繋ぐ土橋。
西側から城への入口、溝口跡。
本丸入口に建つ案内板。
本丸へと続く土橋。本丸は南から入るようになっており、畑になっています。北側に回ってみたりしましたが、城の遺構らしきものは見当たりませんでした。しかし、発掘調査時には門と館跡がみつかっています。また、昭和に入ってから削平される前は、約1間(1m80cmくらい)の土塁が巡らされていたそうです。
この本丸に龍造寺隆信がいたんですよね、ここを本陣にして主家でもあった少弐家の居城「勢福寺城」を攻めていたんです。まあ、主家とはいえ隆信の父や兄弟が粛清対象となって皆殺しにされてしまい、本家を継いでも村中城を攻められて築後に落ちのびたり、先に手を出したのは少弐側ですから、もはや主君でも何でもなく仇敵ですよね下剋上もやむなしですよ。
龍造寺隆信もこの景色を見ていたのでしょうか、姉川城東堀の外から勢福寺城方面を撮影。
時が流れて、かつては多くの武者たちが戦をしていた城跡も、曲輪には新しい家が建ち平和な暮らしを営んでいます。こういう風景こそ、まさに「諸行無常」です。史跡を巡っていると大きな時代の流れと一体になれるような気がして、日常の些細な不平不満などどこかへ飛んで行ってしまいます。こういう場所が数えきれないくらいに残っている佐賀は、本当に素晴らしい場所だと思います。
さて、姉川城に本陣を置いた勢福寺城攻めが行われたのは1558年の事で、猛攻を加えるも神代勝利、江上武種が守る勢福寺城を落とすことができませんでした。龍造寺隆信が少弐氏を滅ぼすのは、1559年の正月の奇襲攻撃。1558年の年末に和議を結んで停戦した直後の正月ですから少弐サイドは本当に驚いたでしょうね。
姉川城は環濠集落から中世の城館へと変わっていく過程の姿を止める城跡として貴重な史跡で、17世紀ころまで使われていましたが豊臣秀吉による九州仕置頃に廃城になったと言われています。
肥前(佐賀)は室町時代を通じて戦乱の絶えなかった地域で、南北朝の時代から様々な群雄が覇権をめぐって争ってきました。そのため多くの史跡と、それにまつわるドラマが各地に残っているんですよ。まるで街全体が博物館のような場所なので、じっくり腰を据えて多くの史跡を紹介していきたいと思います。
草木が枯れる冬になったら勢福寺城址を攻めてみるつもりなので、乞うご期待!かなり大きな山城跡のようで、支城の跡も残っているとの事なのでとっても楽しみです。
「肥前 姉川城跡」
MAP:佐賀県神埼市神埼町姉川字二本杉 Googleマップへ
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