たまたま饅頭を買いに行って偶然見つけた歴史スポット、佐賀富士町の「金福寺」
佐賀の八賢人でしたっけ、江藤新平ゆかりのお寺が佐賀富士町の山奥にひっそりと建っていました。維新博だとかなんだとか、盛んに言ってる割には老朽化が進んで荒れてますね。江藤新平といえば佐賀藩内でもかなりの急進派で、佐賀の乱の首謀者となるなど幕末維新期の佐賀にとって重要なキーマン。そんな人に所縁のある場所でもコレですから。
江藤新平ゆかりの地を発見したのは本当に偶然、富士町の北山に美味しい饅頭屋さんがあると聞いて尋ねたのが切っ掛け。
スマホに表示されたグーグルマップを頼りに、見事なダム湖を横目に山の中を進みます。辿り着いたのは、こんなにのどかな山里集落。江藤新平ゆかりの地は、ここにありました。
ちょうど目当ての饅頭屋さんの隣。いかにも古そうな石積みと、その上に建つお寺「金福寺」
近づいてみると石積みが本当に見事、加工された石と自然のままの石を見事に組み合わせています。
寺の階段横にあった案内板。饅頭屋さんの隣にある凄い建物と石垣に引かれ、案内板を見て初めて江藤新平ゆかりの地だと知りました。
このお寺は「金福寺」といい、江藤新平が脱藩した罪により永蟄居を命ぜられた寺なのだそう。
この辺りには中世の遺構などが数多く存在し、むかしは古い家が沢山残っていたそうです。しかしその多くがダム工事により失われたと、隣の北山饅頭のスタッフが教えてくれました。
ちなみに金福寺のお隣、私が目指した本来の目的地「北山饅頭」。こちらは後日、改めて記事を書きます。なんせ仕事が終わって夜23時から記事を書いてますからね、翌日は8時にジャガイモを出荷しなきゃいけないので記事を連投するのはチョットきついのです。
この北山饅頭、明治元年に建てられたとか。すんごく趣のあるお店ですよ。
それではさっそく、階段を上ってお寺に参りましょう。
階段を上り、正面に本堂が見えてきました。これは古い、いつ頃建てられたのか知りませんが見るからに歴史を感じます。
右手を見るとお墓が並んでいます。
左手に玄関がありました。
古そうなお堂。
案内に書かれていた1795年に建立された三重塔。
狭いのでなかなか全景を撮ることができないのですが、存在感抜群の本堂。年季が入っているのと、痛みがひどいですよね。佐賀って維新博ですよね、幕末維新に力を入れていますよね、ここ八賢人所縁の地でも重要な場所ですよね。こういう姿をみると、なんだか悲しくなります。
これが八賢人ゆかりの地、しかも中心人物が実際に暮らしていた場所。この場所で江藤新平が約2年間くらし、近所の子供たちを集めて勉強を教えていたと伝わります。妻と子供、合わせて5人家族。生活は苦しかったようです。
悲劇的な最後を知っているだけに、その光景を思い浮かべるのが辛いですね。
この建物がいつ頃建てられたのか定かじゃないので実際に江藤新平が暮らした建物かどうか分かりませんが、もし当時のままなら子供たちが元気に通っていたのでしょう。
その子供たちをどのような表情で見ていたのか。
扉にガラスが外されている部分がありますね。
ガラスが外されたところから中を覗いて、仏様にお参りします。
御本尊は薬師如来、1290年創建の禅寺だそうです。江藤新平もこの如来様にお参りしていたのでしょうか。
ふと横を見上げると、これはなんでしょう。鳥居が付いているので神社関連のものでしょうか。担ぐためなのか、棒もあります。神輿?
石段を登ったところに建つ六地蔵石幢(せきとう)は二段式になっていて、上部も下部も六地蔵を彫るのは珍しく県内で唯一。
かつては水で満たされていたと思われる池の跡。
裏山には危険が迫った時に江藤新平が身を隠したと伝わる岩穴があるそうなのですが。
本堂の裏に回るも通路らしきものも見つけられません。
寺の脇に裏山へ続く道があったので、この先でしょうか。
このような道を登っていきます。
草と虫と、蛇もいますね。この先はチョット厳しそう、きょうは饅頭買いに来ただけなので山に登る服装じゃないのです。怪我したりすると迷惑をかけるかもしれないので、ここまでにしときましょう。
来るなら冬がよさそうですね、またいずれ岩穴を発見したら追記します。
この山の中にも平地のようになっている場所が点在していて、かつては家があったのか、寺の建物があったのか。人が暮らしていた形跡があります。
しかし永蟄居中の江藤新平が危険な目に合うってどういうことでしょ、集落の中にある寺で代官所のすぐ近く。賊に襲われるというのも考えにくいですし。
小さいながらも見ごたえのあるお寺、江藤新平が暮らしていたと考えるとなおさら。
道路へ降りて石垣を見ると、本当に見事ですよね。
金福寺のすぐ近くには、江戸時代の代官所跡があります。歩いて数分の距離。
駐車場も充実、公園が目の前にあります。
そして一番感動したのがトイレ。凄く綺麗に保たれています。
こちらがみんなのトイレ。公園の公衆便所って臭い、汚いというイメージがあるじゃないですか。ここはものすごくキレイ、誰が管理しているんでしょう。
江藤新平は1862年から蟄居中の約2年間この地で暮らしました。江藤新平29才の時、妻と子供3人の5人家族。その暮らしは相当に苦しかったようで、俸禄が一切出なかったためにその日の食べ物にも不自由したといわれています。
薩長土肥などと言われていますが、幕末期の佐賀藩は特に何もしていません。どちらかといえば幕府派とみなされていたのではないでしょうか。鳥羽伏見で勝利した薩長を主力とした朝廷軍は、佐賀藩が動かない事にいら立っていました。
佐賀鍋島藩は江藤新平らの働き掛けもあり、江戸城開城後から本格的に参戦します。決断力のなさから完全に出遅れた佐賀藩。薩長による佐賀攻めを阻止し、朝廷側に佐賀軍を合流させることができたのは江藤新平の働きがあったからこそ。一歩間違えると、賊軍として討たれていたかもしれないんですね。まあ、薩長も近代装備で武装し、強力な藩兵を擁する佐賀と本気で事を構えようとしていたのかどうか疑問ですが。
しかし、あの国内最強の武闘派集団「薩摩」ですからね。江藤新平がいなかったら「チェストー」なんて叫びながら、かかってきたかもしれませんよ。
そんな幕末期、佐賀藩では少数派だった志士が暮らした寺。ほとんど誰にも知られることなく、ひっそりと朽ちていこうとしています。佐賀の魅力は歴史遺構が数多く残り、当時の人たちと同じ場所に立って歴史を感じる事が出来るということ。
そして饅頭を買いに来ただけなのに、偶然からこんな場所を見つけてビックリ!なんてのはもはや様式美。どこに何があっても驚きません、なんたって歴史遺構の宝庫「佐賀」ですから。
「金福寺」
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