佐賀を統一した龍造寺隆信の跡を継ぎ所領を守り抜いた鍋島一族。その発祥の地を訪ねてきました。
佐賀市中心部から北西方向にある鍋島という地名。そこは肥前佐賀藩主として明治まで続く大名家「鍋島家」発祥の地、城館があった場所には石碑が建てられ「御舘の森」として今も地域の人によって大切に守られています。
場所は佐賀市鍋島町鍋島、佐賀を流れる嘉瀬川のほとり。佐賀大学医学部から北へ、嘉瀬川の堤防そばの田園地帯にあります。鍋島城館跡に向かう道路はとても狭く、自動車で入るのは危ないので徒歩か自転車で行くことをお勧めします。
国道263号線「大和工業団地」交差点から西へ真っ直ぐ、医大通りを越えてさらに先。ちょうど嘉瀬川の堤防沿いの道に突き当たる交差点の手前、とても狭い道を右に入ります。
曲がるとこんな道です、軽自動車でもギリギリの狭い道。自動車で行くのはおススメしません。
この道を真っ直ぐに進んでいくと
左前方に一段高くなり、木が植えられている場所が見えてきます。ここが鍋島城館跡と伝わる「御舘の森」です。
城館跡の正面、周りの田畑から一段高くなった土橋が続き、奥が広くなり方形の郭のようになっています。ただし、この土橋が当時のものかどうかは不明。
辺りを見渡してみると、田畑に大きな高低差があります。これはあくまで私の推測ですが、高い畑は陸地だった場所で低い田畑はクリークだったのではないでしょうか。
佐賀の平城にはクリークの中に浮島のような郭を持つ城が各地に点在してます。この高い所と低い所が混在した田畑を見ていると、田畑の中に浮かぶ島のように見えるんですよ。
ひょっとしたら、こんな姿をしていたのかもしれませんよね。発掘調査資料をネットで探してみるのですが、やっぱり見つかりません。
ほら、水田に浮かぶ島のような畑があるでしょう。こんな高低差が周りにたくさんあるです。
そしてこちらが鍋島城館跡と伝わる、御舘の森です。
御舘の森へと入っていくと、佐賀市指定史跡と書かれた石碑などが建っていました。
説明版によるとここを鍋島発祥の地とし、城館の場所を示す文献資料が無いと書かれています。実際に鍋島氏がここを本拠地としたのは数十年程度、それでも佐賀を治める大名一族の発祥地にあった館すら不明というのは腑に落ちません。佐賀城からこんなに近いのにですよ。それでも地元の人たちにとって藩主一族の発祥地というのは誇りだったのでしょう、この地を城館跡として現代まで大切に守られてきました。
山城から肥前に下向してきた鍋島氏は源姓、いわゆる源氏です。肥前守護の少弐氏、主家であった龍造寺氏は共に藤原姓。そういえば鍋島氏も途中から藤原姓になるんですよ。なんでも龍造寺氏の主筋にあたる少弐氏に妾を出して子を授かり、その子が鍋島氏の嫡流になるという強引な方法で。血筋や家柄が重要視されていた中世社会において、源姓であった過去は龍造寺氏から領主の座を禅譲させた鍋島氏としては大っぴらにしたくない事だったのかもしれません。
さて、難しい事はおいといて、御舘の森に入っていきます。
かなり古そうな塔が並んでいますね。
こちらは中央付近に立つ石碑。鍋島氏の初代鍋島経秀の法名「崇元」の文字が刻まれた石碑。
御舘の森奥から入り口方向。
御舘の森奥から南西方向を見ると、嘉瀬川の堤防沿い、先の方に観音寺の大きな屋根が見えます。この観音寺は鍋島氏初期の菩提寺。
嘉瀬川の堤防上からみた御舘の森。
鍋島氏の出自について残っている文献が乏しいそうで、有力とされている説は佐々木源氏の長岡氏が山城国(京都)から1370年から1380年代初頭頃に肥前国鍋島に下向、そのまま地名の鍋島を名乗ったのが始まりというものです。最初は肥前千葉氏に仕えたようですが、後に龍造寺氏の臣下となり佐賀本庄へと本貫地を移します。
本庄へと移った鍋島経直は、大内氏との戦いに敗れ龍造寺を頼って与賀へ逃れてきた肥前守護少弐教頼に娘を妾に差し出します。二人の間に子が生まれますが少弐教頼が戦死。鍋島経直はその子を引き取り、養育して鍋島家を譲りました。こうして藤原姓鍋島氏が誕生、鍋島経房(清直)が藤原姓鍋島氏の祖となります。
さらに龍造寺氏の跡を受けて肥前佐賀藩主となったことから、龍造寺氏を継いだ系図も存在しているそうです。龍造寺氏が肥前を統一し、その後を継いだ鍋島氏。その正当性を周知するために大変な苦労をしていたみたいです。
初期鍋島氏の菩提寺「観音寺」
さて、鍋島城館跡「御舘の森」から南西方向へ少し行くと、観音寺という立派なお寺があります。このお寺は鍋島に移住してきた頃から、藩主時代初期の鍋島氏が菩提寺としたお寺です。
このお寺はもともと鍋島城館付近にありましたが、鍋島直茂によって現在の場所へ移されました。以来、1747年に高伝寺が建立されるまで鍋島氏の菩提寺でした。そのため本堂には鍋島直茂をはじめとする、初期鍋島藩主の過去帳及び位牌が安置されています。
1782年、8代藩主「鍋島治茂」によって再建されたと伝わる本堂。だだっぴろい田園地帯にドーンと立派なお堂が建っているのでとても目立ちます。
境内には供養塔が立ち、この中には大内氏との戦いに敗れて自刃した少弐教頼の供養塔もあります。少弐教頼は肥前守護少弐氏14代党首で、藤原姓鍋島氏太祖「鍋島経房(清直)」の父親。
本堂の裏手から、御舘の森を見てみました。
観音寺の境内にがありました。
鳥居には天満宮とかかれていますので、天神様が祀られているようです。
山城国の北野に居住していた長岡氏が、なぜこの地に移り住んで鍋島氏を名乗ることになったのか。記録は全くないそうです。
長岡氏が移り住んだ頃、この辺り一帯は大宰府天満宮の荘園領内ででした。このことから北野天満宮がある京都北野に住む長岡氏は天満宮と縁故があり、何かの理由でこの地に移り住んで天満宮の祠を建てたと考えられています。
南北朝の時代から戦国の世を生き残り、主家である龍造寺氏が切り従えた領土を引継ぎ、九州の大大名となって明治維新まで続いた佐賀藩主鍋島氏。その発祥は京都から佐賀の片隅にある鍋島へ移り住んだ、小さな地方領主からのスタートでした。
佐賀にはこういった中世遺構や所縁の地が数多く残っています。龍造寺隆信という英雄を中心にして多くの群雄が割拠した激動の時代、ほんとうにドラマチックで面白いですよね。
「鍋島城館跡(御舘の森)」
「観音寺」
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