旧長崎街道沿いの「佐賀の乱」戦場を歩いてきました。
「寒水川(しょうず川)」の激戦!朝日山で敗れて後退する佐賀反乱軍、ここでの反撃は凄まじかったそうです。
佐賀士族の一部が武装蜂起し、佐賀城を占拠したことから始まった佐賀の乱。政府による鎮圧部隊が本格的に佐賀へ侵攻、鳥栖の朝日山で反乱軍先鋒と戦闘状態になります。
攻め寄せる政府軍約1200の兵力に対して、佐賀反乱軍は数時間で敗北。途中で遅滞戦闘を行いながら、長崎街道沿いに現在のみやき町中原まで撤退。街道沿いに進軍してくる政府軍を迎え撃つため、寒水川を挟んで陣地を構築します。
国道34号線から見た寒水川、旧長崎街道方面を撮影。左側から右側へと政府軍が攻め寄せます。
国道34号線に並行して東西に走る旧長崎街道、鳥栖方向(東方向)です。朝日山から敗走する反乱軍を追撃してきた政府軍は、この先中原宿に集結します。
寒水川にかかる六の坪橋の上から西方向、反乱軍が布陣した方向を見ると緩やかな上り坂になっています。
政府軍の侵攻方向、川を挟んで西方向を撮影すると正面が高地になっています。反乱軍が布陣した寒水川の西側は、高低差が十メートル以上ありそうな高地になっており、防御に適していたことがよくわかります。渡河してきた部隊を高地から狙い撃てる絶好の地形、政府軍も攻めあぐねたことでしょう。
現在の道路は旧長崎街道を拡幅して真っすぐに作り直された道路で、本来の長崎街道は三養基高校の南側にあるこの狭い道だそうです。舗装もされておらず、まるであぜ道ですね。
旧長崎街道の入り口には看板があり、この地域の事が書かれています。江戸時代、寒水川には橋がなく飛び石を渡ったそうです。残念ながら、佐賀の乱に関する記述はありませんでした。
こちらは街道の北側になるのですが、高校の中にも段差があります。高地をとるのが防衛戦闘の定石、佐賀反乱軍はこのような地の利を生かして戦っていたようです。
旧長崎街道を西へと歩いていきます。この先は左へとカーブしているので、敵の待ち伏せを受けると側方から攻撃を受けます。もともと佐賀藩の防塁の役割をしていたのでしょうか、虎口のようになっています。
カーブを曲がると、緩やかな上り坂。
右と左が土手のようになっていて、このまま進むと現在の道に戻って右へ曲がります。城下町や宿場町に見られるような鍵状の通りで、古くから佐賀藩の防衛拠点の一つだったのでしょう。
ここが旧長崎街道が当時のまま残っている通りの西側入り口です。
旧長崎街道を寒水川を渡って東へ、ちょうど坂を登りきったあたりに祇園社がありました。
この辺りは寒水村と呼ばれていた地域で、佐賀反乱軍は寒水村に陣地を構築。この祇園社も、なにか謂れがあるのかもしれません。
さらに進むと、東寒水公民館がありました。工事中でしたが、見るからに時代を感じさせる建物です。
建て替えではなくリフォームしているように見えます。古い建物ですから、後世に残してもらいたいですね。
公民館の敷地内にあるお地蔵さま。この地で起きた戦いを見守っていたのでしょうか。
1874年2月22日、朝日山で敗退し途中で散発的なゲリラ戦を展開しながら反乱軍は寒水村まで撤退し陣地を構築します。追撃する政府軍は被害を受けながらも前進し、中原宿まで進軍。
翌23日午前7時、第十大隊を分けて守備の兵を中原に置き、同大隊の他を先鋒、第三砲隊が続いて寒水川へ進軍。第四大隊は後詰めとして進発し、北山方面(場所不明)へ転戦。
この戦いは、翼を広げるように左右より包囲攻撃を加える反乱軍の前に、政府軍は大苦戦。「官軍殆ど敗れんとす」と佐賀征討戦記に記されるほどの激戦となりました。司令官である野津少将が弾雨の中、前線に出て直接兵士を鼓舞し指揮をとるほどの状況。そんな中、本隊苦戦の報を受けた第四大隊が北山方面から反転し反乱軍の背後から攻撃。前後からの挟撃を受けた反乱軍は総崩れとなって敗走しました。
政府軍第四大隊を中心とした部隊は、敗走する反乱軍を追撃。筑後川方面で苦戦していた第十一大隊も無事に敵陣を突破し、本隊との合流を果たします。さらに戦力を増強した政府軍は追撃の手を緩めず、吉野ケ里町の田手川へと戦場を移します。
寒水村から西方向、この方向から反乱軍は第四大隊の攻撃を受けました。そして、長崎街道をさらに西へ、田手川へと敗走していくのです。
朝日山の敗報を受けた佐賀の乱における首謀者の一人「江藤新平」は田手川まで進出、寒水川を突破し第十一大隊との合流を果たした政府軍との決戦になります。
旧長崎街道、寒水川にかかる六の坪橋。
武力によって起つ事を決意した旧佐賀藩士たちは、本当に勝算があって戦ったのでしょうか。それとも、映画のラストサムライみたいに、侍としての矜持を胸に死に花を咲かせるための決起だったのでしょうか。
反乱に至る経緯は様々な人が分析しているようですが、武装ほう起した後、どうやって反乱を終わらせるつもりだったのかが見えてこないんですよね。
まあ、むつかしい事は専門の先生方にお任せして、明治という新しい時代の中で何かを求め文字通り必死で戦った人たちがいた。学者でも何でもないタダの歴史ファンである私は、気軽にその足跡を辿って行きたいと思います。次は旧長崎街道の田手宿ですね、あとは筑後川沿い六田などにも赴いていきたいと思います。
「寒水川古戦場」
MAP:佐賀県三養基郡みやき町原古賀付近 Googleマップへ
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