山頂部は広く削平されていて神社になっています。
「杵島城跡」男島城と共に主城である須古城を守る城でした。
佐賀県杵島郡白石町には、龍造寺隆信が全盛期に居城とした須古城がありました。もとは小城市を中心に大きな勢力を誇った「千葉氏」の家臣であった「平井氏」が治める地でしたが、平井氏が肥前国西部に勢力を誇った有馬氏へと寝返り、肥前東部を支配下に治め西進してきた龍造寺隆信に敗れ龍造寺氏の領土となりました。
須古城の紹介はコチラ
須古城は平井氏の居城「高城」を改修した城で、今回紹介する杵島城は平井氏が支配した頃から須古城(高城)の西の防衛を担った支城でした。
杵島城の東側、神社の参道を撮影。
須古城の紹介記事でも掲載した須古城と支城との位置関係(犬山城展望台から撮影)。
石段を登っていくと、途中に城の南面に沿った帯曲輪のような段がありました。
頂上である主郭部、神社の境内になっていますが思った以上に広いスペース。本殿奥も一段下がって広いスペースがあります。
素朴な造りですが、決して簡素ではなく重厚で迫力のある本殿。
飾り気が無い事が魅力を引き立てているようで、硬派な力強さがありますね。見事な社殿です。
境内の南側に設けられた石段、神社になってから付けられたのでしょう。しかし、この急斜面、階段がないと登るのも大変ですよ。
北面は下まで続く急斜面、南面のように帯曲輪のような段はありません。
本殿の奥に広がる平地部。一段下がった場所にあるので、郭の一つだったのかもしれません。
この場所から、自動車が通れるくらいの道が鍵状に通っています。後から付けられたものだと思いますが、ここに郭があったのなら入口がここにあったとしても不思議じゃないですね。
これは土塁跡?
杵島城を含め、須古城が主戦場となったのは第四次須古攻めの時です。第四次須古城攻めで龍造寺隆信が本陣を置いた妻山方面の眺め。男島城も杵島城もこの戦いで落城、約450年前に城を守っていた兵士たちは何を思って妻山を見ていたのでしょう。
杵島城から見た須古城、正面の小山が須古城です。杵島城の周りは湿地帯というか、沼のような場所で兵士が身動きが取れないほどだったそうです。ここから須古城へと続く道沿いには「堤」という地名が残っているので、須古城北面には堤が築かれていたものと思われます。堤の内側に須古城と連絡する通路があり、籠城時は連携して防衛に当たっていたのではないかと推測できます。ちなみに、須古城の南西面には搦め手がありました、ちょうど写真に写っている小山の右端あたりです。
実際の須古城攻めでは、杵島城があった須古城西側は主戦場となっていなかったようです。百町牟田といわれる沼田であったため、兵を備えなかったとの事。しかし、杵島城が須古城を守る支城であったのなら、何かしらの役割はあったのではないかと思われます。
周りの風景は変わってしまっているでしょうが、戦国時代の人たちが立った場所と同じ場所から景色を眺めると、歴史を身近に感じることができますね。
「杵島城跡」
MAP:佐賀県白石町堤2223 Googleマップへ
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